昭和史研究の第一人者として、多くの著作を残した半藤一利さん。『日本のいちばん長い日』(文藝春秋)は綿密な取材を基に、終戦の日を活写したノンフィクションだ。

 1945年8月14日、ポツダム宣言の受諾を決めた日本政府は、玉音放送の準備を進めていた。深夜、皇居にて「終戦の詔書」の朗読に臨まれた昭和天皇が、関係者らを前に吐露された心境とは――。(全3回の2回目。第1回第3回を読む)

半藤一利さん ©文藝春秋

◆ ◆ ◆

ADVERTISEMENT

8月14日の夜、天皇の録音が行われた

 閣議は終り、そして天皇の録音はこれからはじまろうとしていた。阿南陸相の自動車が官邸の前でとまったころ、11時25分、陸軍大元帥の軍服姿の天皇は、入江侍従をしたがえて御文庫を自動車で出発、御政務室へ入られた。

 まだ警戒警報はとけていなかったが、宮内省防空課長松岡進次郎が東部軍に敵機にかんする情報を照会し、「東京にむかう様子がない」と東部軍民防空係藤井恒男中尉の回答をえて、録音強行ときまったのである。

 建物の窓という窓には鎧戸がぴたとおりていて、内部の明りは洩れなかったから、部屋に電灯は煌々とともされていた。明るい御政務室のほぼ中央にスタンドのマイクがすえられてあり、刺繡獅子図二曲の金屏風をまわし、窓ぎわに宮内大臣石渡荘太郎、藤田侍従長、廊下側に下村総裁らが立って天皇を迎えた。藤田侍従長は、御文庫で天皇が詔書宣読の練習をされているのを承知していたが、連日連夜のご疲労を思えば、首尾よく終ることを祈らざるをえないような気持にかられていた。

 石渡宮相は別の感慨にとらわれていた。それはよくここまで無事に到達したものだという喜びでありおどろきであった。8月12日にとつぜん天皇が皇太后に会いたいといわれたことを、宮相は胸を熱くしながら思いだすのである。

「皇太后様にお目にかかるのも、最後になるかもしれぬ」

 そのとき天皇はいった、「自分はいま和平を結ぼうと思って骨を折っているが、これが成功するかどうかわからない。だから、あるいは皇太后様にお目にかかれるのも、こんどが最後になるかもしれぬ。一目お会いしてお別れを申上げたい」――天皇にすら、和平実現に真の確信はなかったのであろう。軍の強い動きによって最悪の事態に直面するかもしれぬことをおそれた、決死のご覚悟といってもよい。

 たしかに天皇をはじめ誰もが決死の覚悟であった。そして今日までやっと登りつめたのである。よくぞ来つるものかなの感慨は石渡宮相にとって、いとも自然な気持の流出であったのである。