天皇がきいた「声はどの程度で…」
やがて天皇が三井安彌、戸田両侍従をしたがえて入室した。その軍服姿を眼にしたとき、隣室のすみに立っていた川本秘書官は思わず身体をふるわせて、自然に深々と頭を垂れた。三井、戸田両侍従は廊下側のとびらのそばに立った。隣室にいた録音関係者も最敬礼で壁のむこうに天皇を迎えた。情報局の加藤第一部長、山岸放送課長、放送協会の大橋会長、荒川局長、矢部局長、近藤副部長、長友技師、春名、村上、玉虫の各技術部員たちと、宮内省側の筧庶務課長がこれらの人びとであった。人いきれと鎧戸をとざした熱気で部屋はむれかえるようである。しかし、人びとは暑さも忘れ去ってしまうくらい緊張しきっていた。
天皇がきいた。「声はどの程度でよろしいのか」
下村総裁が普通の声で結構の旨を答えた。荒川局長が、隣室のとびらのすぐそば、下村総裁がよくみえる位置に立っている。一歩、下村総裁が天皇の前に進みでて、うやうやしく白手袋の手を前に差出しながら一礼した。その白手袋が合図で、ただちに荒川局長は技術陣にめくばせした。録音がはじまった。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ……」
天皇は詔書を読まれた。長友、村上が調整、春名、玉虫がカッティング(録音盤に音のミゾを刻みこむ)という技術陣万全の配置であった。天皇の低い声は録音盤を刻むカッターの静かな流れのなかに吸収されていった。藤田侍従長、下村総裁から川本秘書官に至るまで、一語一語をかみしめるように聞いていた。天皇のお声のほかに音ひとつなく、外は大内山の森閑たる夜であった。
「爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス……」
みなの顔に滂沱として涙が流れ、歯をくいしばって嗚咽をたえている。
5分ほどで録音を終った。「どんな具合であるか」と天皇はきいた。筧課長から小声でただされた長友技師は、これも低い声で「技術的には間違いはありませんが、数個所お言葉に不明瞭な点がありました」と答えた。天皇も自分から下村総裁へ向い、いまの声が低く、うまくいかなかったようだから、もう一度読むといった。