昭和史研究の第一人者として、多くの著作を残した半藤一利さん。『日本のいちばん長い日』(文藝春秋)は綿密な取材を基に、終戦の日を活写したノンフィクションだ。

 1945年8月15日正午、ほとんどすべての日本国民がラジオの前に集まり、終戦を知らせる放送に耳を傾けていた。だがその直前、録音盤のあるスタジオでは、ある“事件”が勃発していたーー。ここでは本書より、一部を紹介する。(全3回の3回目。第1回第2回を読む)

半藤一利さん ©文藝春秋

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すべて終った、8月15日

 17人の男たちが真昼の地下壕におりていった。御文庫の玄関さきから望岳台の下にむけて斜めに、よしずを敷いた階段を、一列にならんでおりていくのである。24時間前、同じ狭い、丸太がむきだしたままの地下道を23人の男たちが通っていった。あのときから正確に丸1日がたったのである。これらの男たちによってひらかれた終戦の幕が、いま17人の老人たちの手によって閉じられようとするのである。

 殺戮が終った。悲憤慷慨、罵詈雑言、剣のきらめき、荒々しい吐息、それらがすべて終った――15年にわたる凄惨な激闘のあとでは、それはいかにもあっけない終末のおとずれであった。非常時の感情は激しく短い。一瞬の光芒はたちまち厚い歴史のページのなかに消え去っていった。

 議長平沼騏一郎、清水副議長、芳沢、三土、池田、奈良、小幡、深井、百武、林、本庄、泉二、桜内、潮の各枢密顧問官と、政府側から、鈴木首相、東郷外相、村瀬法制局長官の3人、あわせて17人の長老たちは、かつての大本営会議室にきちんとならび、天皇の親臨を待った。十数時間前、閣議の席上で、さながら最後のはかない抵抗であるかのように阿南陸相が、「終戦詔書公布前に枢密院の議を経ねばならないのではないか」といった、その枢密院本会議がひらかれる。

 形式的なものかもしれない。しかし、形式的なことをなんどでもくり返しおこなうことによって、日本の敗北の認識がさらに深められていくようであった。外は見わたすかぎり瓦礫が堆積した焼野原である。かつての住居のあとに掘立小屋をつくり、日本人は飢えた毎日を送っていた。塩を例にとっても、あと1か月もすれば牛馬に食わせることができなくなるほど、窮乏のはての敗戦であった。形式などにこだわることのない完全な敗北なのである。