青年将校たちは自決へ…「日本陸軍の最後の姿だ」
天皇が枢密院議場に姿をあらわしたのと同じ時刻、宮城前二重橋と坂下門との中間芝生で2人の将校は生命を絶った。畑中少佐はうすく腹を切り森師団長を射ぬいたのと同じ拳銃で額の真中をぶちぬき、椎崎中佐は軍刀を腹部に突きさし、さらに拳銃で頭を射って倒れた。太陽の直射で、あたりはオレンジ色に彩られている。それは戦いの終りでもあり、彼らの長い一日の終りでもあった。
それよりすこし前、近衛師団司令部の師団長室で、もう一つの死があった。森師団長の遺体をおさめた棺の前で、古賀参謀が割腹自決をとげていたのである。その朝、田中軍司令官が宮内省の一室で、「散りぎわだけはいさぎよく散ろうじゃないか、それが日本陸軍の最後の姿だ」と古賀参謀をさとしたが、その言葉どおり十文字に腹を切り、いさぎよく若桜は散っていった。朝から古賀参謀の自決の意志に気づいた川崎副官らが、それとなく注意の眼を離さなかったのだが……。
参謀は、1時間も2時間も正坐して頭をたれたまま棺の前を動かなかった。副官らはいそがしさにまぎれて、参謀のことを分秒忘れた。そのわずかな間隙をとらえた。物音に驚いて駈けこんだときには、すでに若い参謀の呼吸はなかったのである。師団長の霊をとむらうための線香の煙が、うつ伏した古賀参謀の遺体をもそっとつつんでいた。
11時半、青年将校たちは自刃の道をえらび、佐々木大尉らはすでに鶴見の本部に引揚げている。もはや危機は遠く去っており、詔書放送の開始はあと30分にせまっていた。放送局は東部軍、憲兵隊によってしっかりと警備されて、そのなかを録音盤は会長室から報道部長高橋武治の手によって運ばれてきた。木綿袋も新聞紙もとりはらわれ、それは紫の袱紗がかけられた桐の箱に収められていた。
録音盤は使用される第8スタジオに入った。その広い部屋のなかには、宮内省の加藤総務局長、筧庶務課長、情報局の下村総裁、川本秘書官、加藤第一部長、山岸放送課長、放送協会の大橋会長らが、放送立会いとして待っていた。彼らは大部分が、銃剣と軍刀下の恐怖の夜を、まんじりともせずに狭い部屋ですごしたものばかりであった。そのときの汗にぐっしょりとなった下着をかえてきたが、いままた新しい別種類の汗でそれをよごしていた。
放送局警備に派遣された東部軍の参謀副長小沼治夫少将が、立会いのため第8スタジオに姿を消したとき、事件が突発した。