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天皇も眼に涙をうかべた

 同じような合図でふたたび録音がはじめられた。天皇は独得の抑揚で朗読した。少し声が高かったが、緊張されていたのか、文中の接続詞に一字抜けたところがでた。侍立する者は緊張しきって汗ばんだ。万感こもごも胸にせまって眼がしらをまたしても熱くした。彼らばかりではなく、天皇もまた眼に涙をうかべた。2回目の録音が終ったとき、加藤第一部長がはっきりとそれをみとめた。

 天皇はまたいった。「もういちど朗読してもよいが」

 筧課長が長友技師にさっそくどうかとたずねた。「こんどはよろしいです」と技師は応答した。筧課長はもう一度録音するが準備はいいかとたずねたつもりであったが、長友技師は首尾不首尾はどうかと聞かれたように錯覚したのである。すっかり固くなり上気して、たがいに意味が通じたように思うのであった。

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 しかし、下村総裁をはじめ、石渡宮相、藤田侍従長も3回目の録音をとめた。天皇の疲労、心痛を思えば、それはあまりにも畏れ多いことであったからである。11時50分である。こうして降伏への準備の第一歩は無事終了した。

 天皇はふたたび入江侍従をしたがえて御文庫に戻った。往きも帰りも天皇は一言も発せず、黙々と、クッションに背をもたせ、眼をつぶっていた。その姿に、入江侍従は心からの痛わしさを感じた。

 同じ時刻、近衛師団参謀室では、井田、椎崎、畑中、窪田らクーデター計画者たちが多かれ少なかれいらいらとした期待の感情をもって、靴音をならして歩きまわったり、椅子から立ったり、坐ったりしていた。井田中佐は、近衛師団参謀の古賀少佐とは初対面であった。また参謀室には、上原重太郎大尉、藤井政美大尉もおり、畑中少佐が全員に紹介した。

 これで中心人物がすべてそろった。彼らは激烈で、きびしい計画を実行しようとしていた。古賀参謀、石原参謀の2人が計画の文案をいちいち検討し、兵力運用を調整し、それぞれの部署についている大隊長クラスの同志と連絡をとっていた。井田、椎崎、畑中らの任務は、近衛師団長森中将を説得することであった。そして説得に失敗したときには「斬る」ことが既定の方針になっていた。