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 同年8月、千鶴子は父や義兄の清原らとともに大阪へ向かった。8月29日付大朝は「千里眼婦人の來阪」の見出しで報じているが、書き出しは「今村博士によって先頃本紙に紹介された透覚婦人、御船千鶴子」。いきさつを説明し、大阪市内で2日間、公開実験が行われると予告した。朝日、特に大朝が今村と連携して千鶴子の透視能力の“旗を振る”姿勢を明らかにしたと考えられる。

透視依頼は2日間で800通! 中には警察からの驚くべき依頼も

 9月2日付では「大阪に於(お)ける千里眼婦人」として、30日夜の実験は満員の盛況で、中に200~300人の女性がいたと記述。千鶴子が知人の妻の病気を言い当てたことから、透視依頼で寄せられた書状が2日間で800通に達したと書いた。中には「先祖が千両箱を庭に埋めたらしいが本当か。発見すれば半額進呈するが」という申し出や、ある警察が犯人の行方を尋ねてきたものもあったという。千鶴子の透視能力が一種のイベントやショーになりつつあった。

 千鶴子はその後、8月31日に京都、9月8日に名古屋、そして9月9日に東京に入った。9日付読売に載った福來の談話によれば、京都では西本願寺法主の脚の病気を見たが、透視の結果は以前に医師がエックス線に照らして見たのと同様だった。

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 ただ「同地における実験は概して不結果に終わった」と記事にはある。「千里眼は科学の分析対象たり得るか」は、京都滞在の1週間は、福來が千鶴子の透視能力にトリックがないかどうかをチェックし、今後の科学者の視線に耐え得る実験のための準備期間だったとしている。

 9月10日付読売は、京都では難病の人が連日、旅館に押し掛け、その数は3日間で500人余りに上ったと報じた。