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医師の娘はなぜ“能力”に目覚めたのか

 千鶴子とその周辺については上木嘉郎「『千里眼の女』・御船千鶴子の栄光と落魄」=『火の国の魂』(熊日出版、2021年)が詳しい。それによると、千鶴子は1886(明治19)年7月、熊本県宇土郡松合村(現宇城市不知火町松合)の士族の家に生まれた。

 父は付近に知られた名医で、「千鶴子は富裕な医家の次女として生まれ、容姿端麗であったが、生まれつき右耳が進行性の難聴であり、寡黙で、一つのことに集中すると、他を顧みなくなる傾向があった」(同書)。進学した私立学校は、いまで言う「いじめ」に遭って退学。初対面の人には強い警戒心を抱くようになった。1908(明治41)年に河地という陸軍中尉と結婚したが、この記事が出た翌年の1910(明治43)年に離婚。御船姓に戻った。

御船千鶴子(福來友吉『透視と念寫』より)

 清原猛雄は正確には千鶴子の姉の夫(義兄)で、1903(明治36)年ごろから、当時全国的に流行していた催眠術にのめり込み、千鶴子にもかけるように。千鶴子も関心を持って催眠術の習得に励んだ。1904(明治37)年、清原は千鶴子に催眠術をかけて透視ができると暗示をかけ、ある透視をさせた。

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 この年の2月、日露戦争が始まり、6月に玄界灘で輸送船「常陸丸」がロシア軍艦に砲撃されて沈没。陸軍将兵600人余りが戦死し、国民の怒りが沸騰していた。当初、広島・宇品を出航した同船には熊本第六師団の兵士も乗っているとされ、清原はその安否を尋ねた。千鶴子は、同師団兵士が長崎から乗った船は途中故障で引き返したため、常陸丸には乗船していないと返答。3日後、事実は千鶴子の透視通りだったことが分かった。

 その後、清原は催眠術なしでも、深呼吸して無我の状態になれば透視できるとして、千鶴子に毎朝練習するよう指示。千鶴子は毎日1時間、深呼吸をするなど修練を続けた結果、10日ほどで、庭の梅の木の幹の中に小さい虫がいるのを透視できるようになったという。同書には、千鶴子の透視として、紛失したダイヤモンドの指輪や、財布の中から消えた現金などの例を挙げている。

明治後期、催眠術が空前のブームに

 一柳廣孝「千里眼は科学の分析対象たり得るか」=金森修・編『明治・大正期の科学思想史』(勁草書房、2017年)所収=によれば、それまであった催眠術は19世紀になって心理学、生理学の研究対象となり、明治維新後の日本に持ち込まれて話題に。1903年以降には社会問題になるほど流行が広がり、催眠術によって生じる不思議な精神現象の存在は一般にも認知されていた。幸田露伴や夏目漱石、森鷗外も関心を持ち、小説に取り上げている。