1909(明治42)年、「金属などの中にある物が透視できる」「遠隔地の人や物が見える」「念じただけで字が書ける」といった“超能力”を持つとされる、御船千鶴子という女性がいた。「千里眼」の名で呼ばれた彼女の能力は日本中から注目を集め、東京で名だたる研究者たちの前で透視能力を披露することとなる。
そして新たに、「千鶴子以上」とも称された「千里眼」をもった女性までも登場。学者たちの研究、新聞報道、世間からの好奇の目に巻き込まれ、彼女たちの人生はしだいに流転していく。ついには大きな悲劇が――。
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10人の学者たちを前に、千里眼を披露
千鶴子の“超能力”をみるために集まったのは、そうそうたるメンバーだった。
日本初の理学博士で、東京帝国大学総長を退任したばかりの山川健次郎。物理学者でのちに文化勲章を受章した田中館愛橘。「日本の精神医学の父」といわれた医学博士・呉秀三。日本初の医学博士で貴族院議員の三宅秀。哲学者で貴族院議員を務めた文学博士・井上哲次郎。全員が東京帝大の3大学か東京高等師範学校(現筑波大)の教授だった。実験が行われた家の大橋新太郎は父佐平とともに博文館を創業した出版人で、のちに衆議院議員となっている。
千里眼“推進派”の東朝は16日付社会面トップで「十博士と千鶴子 大學(学)の智(知)識を集めて 千鶴子の大試驗(試験)」の見出しで詳しく報じた。
御船千鶴子は14日午後2時から麹町中六番町の大橋新太郎邸で透覚の実験をした。…何しろ天下の学者十数名列席、立ち会いのうえで実験することだから、千鶴子にとっては晴れの舞台。実験が成功すれば、各方面の学者に認められ、一般社会が信認することになるのだから、皆注意を集め、その結果はいかにと待っている。
「透覚」は、千鶴子の“超能力”が視覚とは無関係なことから、朝日などは途中から「透視」の代わりに使うようになった。東朝の記事は次のように続く。
大橋邸に集まった諸博士は、いずれも千鶴子の透覚を不思議がっている人ばかりだ。「もしこれが事実なら、学術上の大問題だ。何しろ不思議なことだ」と言い合わせたように言っている。山川博士は福來博士と相談して、前日から透覚物を準備した。福來博士の作ったものでは面白くあるまいと、自ら理科大学の実験室で字を書いた紙片を鉛で包んだ物を20個、福來博士の物と同じようにこしらえて持ってきた。博士たちはそのうちの1個を取って目方を測り、千鶴子に渡した。千鶴子はそれを持って静かな、人のいない2階の一室にびょうぶを立て回してその中に正座した。山川、大澤の両博士は一同を代表して2階へ上がって監視することになり、階下の博士たちは鳴りを潜めて結果を待っていた。
ややしばらくすると、千鶴子はびょうぶの中から出て「分かりました」と言う。山川、大澤両博士とともに2階から下りる。一同首を集めて千鶴子が透覚した字を見ると「盗丸射」と書いてある。すぐ透覚した物の鉛の端をのこぎりで切り開いて、中の紙を取り出して見ると、はたせるかな「盗丸射」とと書いてある。
誰もが的中したことにびっくりしていると、突然山川博士が「どうも不思議」と言い出した。山川博士は「私が提供した物の中には『盗丸射』と書いたものはなかったはずだが」と言いつつポケットから、控えに書いておいた紙片を取り出してみたが、「盗丸射」と書いたものはおろか、似たものさえない。いままで驚いていた博士たちはあきれてしまった。よく見ると、鉛の形も山川博士が持ってきた残り19個とは少し違っているところがある。いろいろ調べてみたが、なぜこんなことが起こったのか、どうしても分からない。
まさに不可解な出来事だったが、この謎は後で解ける。