「千里眼の時代」が悲劇の結末を迎えた理由
千鶴子の死から5日後の1月24日付東日は「千里眼の取締」の見出しで「念写実験などが学者の係争問題となり、多数の『千里眼』の中にはあいまいな手術を施して利益をむさぼる傾向もあるため、内務省は、世を害する場合は取り締まりをすることになる」と報じた。
振り返ってみると、「千里眼」が実在するかどうかは別にして「手品だ」と頭から全否定したのは少々酷だったのではないか。ただ、これには根本的な問題がある。報知の千鶴子の訃報の中で、井芹は、千鶴子の実父が千鶴子の特殊技能を利用して利益を得ようという野心があり、大阪の相場師と特別契約を結んだといううわさがあったと話している。また、千鶴子は1909(明治42)年には、三井合名会社(当時)の藤村義朗理事から三井が経営する三池炭鉱万田坑第二竪坑の鉱脈を透視で言い当てたとして謝礼2万円(現在の約7100万円)を贈られたという。
「千里眼」の本質は金もうけに直結する。その限りであれば、関係者が当たり外れに一喜一憂するだけで済んだはず。それをさまざまな学者たちが科学的に解明しようとした。いや、福來ら、初めから「千里眼」の存在を信じる学者たちによる実験が本当に科学的なものだったかは疑わしい。そこには、純粋な学問的関心だけでなく、名誉欲や学閥の競争もうかがえる。そして、新聞は推進派と否定派に分かれ、競ってセンセーショナルに書き立てた。背景には激しい部数競争があった。2人の女性の悲劇はそこから始まった。
日露戦争後のこの時期、飛行機をはじめ無線電信、エックス線、映画といった科学技術が次々発明、開発され、日本にも科学思想を求める論調が強くなった。その半面、科学では解明できないものへのノスタルジーやあこがれが人々の間に強まっていたのではないか。「千里眼」に対する視線にはその両方の要素が感じられる。
【参考文献】
▽上木嘉郎『火の国の魂』 熊日出版 2021年
▽一柳廣孝「千里眼は科学の分析対象たり得るか」金森修・編『明治・大正期の科学思想史』(勁草書房 2017年)所収