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 ところが、東那須野村には最初は駅すら置かれることがなく、地元の人たちが盛んに陳情してようやく結実したのが東那須野駅だった。

 

 東那須野駅が開業すると、それまでは田畑だった国道との間に商店街が形成された。それが、いまの那須塩原駅東口にある昔ながらの商店街のルーツである。つまり、この時期の駅の正面はいまとは反対の東側にあったのだ。

 ただ、それでも黒磯駅や西那須野駅ほどの地位を確立することはできず、長らくそれらに挟まれた小駅という存在で歴史を刻む。状況が一転したのは、東北新幹線建設に際して東那須野駅に新幹線駅を設けることが決まってからだ。

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東北新幹線建設と那須御用邸、そして温泉…

 那須のリゾートの玄関口は、ほぼ一貫して黒磯駅と西那須野駅が担ってきた。とりわけ黒磯駅は、那須御用邸を訪れる皇族が使う駅であり、急行や特急の一部が停車するなど、那須一帯の看板駅としての地位を確立する。だから、新幹線も黒磯駅に乗り入れるのが順当である。

 ただ、そうなると塩原温泉に近い西那須野駅の顔が立たない。そうした配慮があったのかどうかはわからないが、黒磯・西那須野どちらの顔も立てつつ、利便性も損なわないように考えれば、東那須野駅に新幹線というのは、妥当な結論だったのだろう。

 そこで問題になったのは駅名である。東那須野という駅名そのままではさすがに通じにくい。そこで新幹線開業と同時に駅名を変更することになったのだが、新駅名で議論が紛糾する。

 栃木出身の有力政治家・渡辺美智雄らは那須・塩原駅を主張。いっぽう、運輸大臣も務めた森山欽司らは那須駅を主張した。那須駅派には長年那須の玄関口を担ってきた黒磯の町がおり、まさに真っ向からの対立となったようだ。最終的には当時の船田譲栃木県知事によって那須塩原駅に統一、国鉄もこれを採用した形になった。

 
 

 かくして東那須野駅は新幹線開業とともに那須塩原に改められた。駅の形も一新されて東口は直接改札口に通じていない、いわば“裏口”になり、那須高原に近い西口が新しい正面になった。