自殺未遂…命や気持ちよりもお金の心配
大学5年生(23歳)の時、人けのない山間部で自殺を図ります。ナイフで鼠径部を切るも動脈を外し、首などを刺すもうまくいかず、結局未遂に終わりました。病院に運ばれ、翌日両親が来た時、母親の第一声は「新聞に載らなくてよかった!」でした。父親はニヤニヤしていたので、「金づるの私が死なずに生き残ったことに安堵していたのかもしれない」とB子さんは振り返ります。
母親はその後もう一度来て「あんた、お金持ってたでしょ。どこにやったん」と訊き、「遣ったり友達にあげたりした」と返すと、「親に残そうと思わへんの! この親不孝もん!」と罵られました。この期に及んで両親は、B子さんの命や気持ちよりも、やはりお金を心配しました。
B子さんは、何とか歩けるようになり退院してすぐ、1回目と同じ産婦人科で2回目の中絶をしました。内出血で半分くらい赤紫色になっている太ももを見て、医者は驚いていたといいます。退院後、大学の診療所の精神科に通い始めました。「頭に鉄のタガがはまっていて、中に鉛の粒と水銀が詰まっているようだった」。眠れない日が続きました。その時は、うつ病と診断されました。
卒業試験にはぎりぎりで合格し、大学は卒業できました。しかし、卒業後に受けた医師国家試験には不合格でした。両親は怒髪天を衝く勢いで、「本来だったら医者になって思いっきりたくさん仕送りをするはずなんだから、契約違反だ!」と責め立て、B子さんに仕送りを要求したのです。実家には絶対戻りたくなかったため、大学5年生から暮らしているアパートにそのまま住んで自活し、仕送りをすることにしました。「要求に反発しても無駄だと思っていたが、それはすでにしっかり洗脳されていた」。
B子さんは、スーパーのアルバイトを見つけ、早朝から昼下がりまで仕事をしました。
その頃には、ウオッカを3日で2本、または毎晩ビール大ビン6本を飲み干す生活でした。
毎日、顔の周りにアルコールの霧を振りまきながら働き、勉強を続けました。
2回目の国家試験には合格しました。
25歳の時にとある総合病院に入職しました。主な所属先であった消化器外科では、2年間に10人の受け持ち患者が亡くなり、毎晩代わるがわる夢に出てくるのでした。他の病院での当直も多いため睡眠剤も飲めず、B子さんはだんだん疲弊していきました。いわゆる「バーンアウト」です。
忙しさのあまり、銀行のATMにもまったく行けず、使う機会もないままお金は貯まっていくばかりです。そんな時に、親から「これまでの教育にかかったお金を返せ」と言われ、唯々諾々と貯金の全額、二百数十万円を送りました。父親は「こんなもん、お前にかけた金のほんの一部じゃ。まだまだ返せ」と言いました。
医師3年目は別の大学病院に入職しました。しかし周りには、焼身自殺未遂の人、やる気のない医者など、日常は落ち込むことばかりで、5カ月で辞職します。「もう医者の仕事は一生しない」と心に決めました。