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 今作も、人呼んで「最後の無頼派」らしい破天荒さは全開なれど、叙述のスタイルが短文を畳みかけるようになっており、読み味がこれまでよりゴツゴツとしていると感じさせる。

「以前は、どんどん浮かんでくる文章を脳内で組み立てておき、パソコンに向かったらそれを一気に外へ吐き出すといった書き方でした。原稿用紙20枚分くらいなら、脳内に書き溜めておいたものです。

 だからずいぶん筆が早いと言われ、作品を量産できた。しかしそのやり方では、小説として頭打ちになると感じていた。抵抗なく読める文章より、もっと一文ずつが読者に響くものを目指そうと考えるようになりました」

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 それで今作では、脳内にとめどなく浮かぶ文章をそのままアウトプットするのではなく、溢れ出るものをまずは留めて呑み込み、それでも出てこようとするものを絞り出して書くこととした。

 いったん書き上げたあとも、安易に流れ出た文章はないか一文ずつ見直す作業を繰り返し、優に原稿用紙100枚分以上の文章を削ぎ落とした。

©文藝春秋 撮影/石川啓次

小学校時代、アメリカで味わった差別の記憶

 文章を磨き上げた効果もあってのことか。作中では主人公のマンスをはじめ、登場人物の存在感が際立っている。得体の知れない怪物たちがうごめき絡まり合っているような、迫力ある描写が続く。

 また、作品が抱えるテーマもくっきりと浮かび上がる。

「私の作品を貫くテーマは、貧困、差別、そして社会に翻弄される人間、となります。『救い難き人』の場合は『色』と『欲』が強く前に出ていますが、色や欲がどこから生じるかといえば、無定見な差別だったりします。出自や国籍による根深い差別が、人を怪物にしてしまうさまを今回は描き出したかったのです。差別に端を発する話をつくる根底には、私自身の体験があります」

 赤松さんは香川県の生まれで、その分野では世界的に著名な研究者を父に持つ。一見、差別が身近にある環境とは思えないのだが……。

 語ってくれたのは、子ども時代の記憶だ。

©文藝春秋 撮影/石川啓次

「小学生のころ私は、父の仕事の関係で米国ワシントン州に住んでいました。北西部で穏健な地域とはいえ、アジア人に対する人種差別がはっきりとありました。

 小学校5年生のときです。仲良しの女の子がいて、いい雰囲気になってキスしようとしたら、直前で避けられた。その子いわく『気持ちは盛り上がってるのに、なんか嫌なの』。

 また、所属していた野球チームで、練習時に小腹が空くのでランチボックスにリンゴを入れて持っていくと、意地悪なチームメートに取り上げられたことがあります。返せと追いかけ捕まえると、『日本人のリンゴなんか食べるかよ』と捨て台詞を吐きながらリンゴを地面に捨てられました。

 こういうことは、米国にいるあいだにたくさん経験しました。所詮子どものやることと言われればそれまでですが、やられた側はいつまでも覚えているものです。