開成中学・高校から東大に進んで現代音楽家を目指すも、25歳で経験のなかったテニスの世界へ飛び込み、ヨーロッパを拠点に活動するテニス選手・市川誠一郎(39)。

 今年5月にダブルス世界ランキングで2090位になった彼に、勉強や中学受験をゲームのように捉えていた少年期、音楽に魅せられた開成時代、あらゆる音楽を探求すべく世界を回った日々などについて、話を聞いた。(全3回の1回目/続きを読む)

市川誠一郎さん

◆◆◆

ADVERTISEMENT

子供の教育に目を向ける余裕もなかった両親

ーー開成中学、開成高校、東大、テニスとなると、どうしても富裕層のイメージがあるのですが。

市川誠一郎(以下、市川) まぁ、そう思われますよね。実家は町のスーパー的な商店をやっていて、僕が中学生ぐらいまではそこそこうまくいっていたけど、全国チェーンの大きなスーパーの勢力がどんどん拡大してきて。それでうちのスーパーは、どんどん先細りになって他のスーパーに買収されて、父親はそこの社員になったので、ぜんぜんお金持ちではなかったです。

ーー両親は教育熱心だったのですか。

市川 ぜんぜんでしたね。スーパーの経営で忙しかったから、親はほとんど家にいなかったですし、子供の教育に目を向ける余裕もなかったというか。缶チューハイの空き缶とタバコの吸い殻が、キッチンのシンクに山積みになっている風景が当たり前の家だったので。それでも、塾には通わせてもらってました。

順位の競争が激しい日能研に入塾

ーー塾に通ったのは、自分の意志で?

市川 そうです。でも、勉強したいからって理由で塾に通ったんじゃないんです。小学校のとき、鉄ちゃんと呼べるほどじゃないけど、ものすごく電車が好きで。電車に乗って出掛けたいがために、ちょっと遠くの日能研に行かせてほしいと親にせがんだんです。

 当時の日能研って、毎週やる全国模試みたいなのがあって。2万人ぐらい受けていたのかな。その順位表から各校の上位50人ぐらいが壁に貼り出されて、席順なんかも点数で決められるんです。だから、座っている場所を見ただけで、その子が何位なのかがわかっちゃう。

 さらに全国の上位2000番ぐらいの子は冊子に名前が載って、上位50人になると名前が冊子の表紙にも載って。すっごくシビアな競争社会なんです。多くの人が想像するようなガリ勉の極致みたいな世界だけど、それよりもeスポーツに近しい世界なんです。