開成中学・高校から東大に進んで現代音楽家を目指すも、25歳で経験のなかったテニスの世界へ飛び込み、ヨーロッパを拠点に活動するテニス選手・市川誠一郎(39)。

 今年5月にダブルス世界ランキングで2090位になった彼に、パリの音楽院留学をやめてまでテニスの世界に進んだ理由、テニスアカデミーで味わった屈辱、選手として一歩進み出すきっかけとなった東京オリンピックのトライアウトなどについて、話を聞いた。(全3回の2回目/続きを読む)

市川誠一郎さん

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大学卒業はフリーターになり、バイトで生計を立てる

ーー東大卒業後は、現代音楽をやっていこうと。そもそも現代音楽って、どういったジャンルなのでしょう。

市川誠一郎(以下、市川) いま現代音楽と言われているものを、どう定義するかは難しいですけど。ここまでのさまざまな音楽の流れを踏まえて、そこからいままでにない新しい表現の形式や作曲の方法とかを作っていこうみたいな。すでにやりつくされている感もあるので、ノイズに走ったり、ドレミファソラシドの間にある音とかを使ってみたり、奇抜な方法を取ろうとするんだけど、なかなか突破口がなくて。

 まぁ、音楽でなにか発明しようみたいなジャンルですかね。

ーー卒業してから、パリの音楽院留学を決意するまでの動きは?

市川 就職してサラリーマンになる気なんかまるでなかったし、そういう動機で大学に行ったわけじゃないので。なので、普通にフリーターに。

 ホステルのバイト、家庭教師、塾の講師で稼ぎながら、音楽を作ったり、海外を回って音楽を掘ったり。それを1年やって、2年目にパリ留学に向けて動き出したんです。

白黒ハッキリしない世界に行くことに迷いが

ーーパリ留学直前でテニスに方向転換したとのことですが、一体なにがあったのでしょう。

市川 音楽をやりまくってはいたけど、やっているうちに迷いが出てきて。どことなく自信がなくて、音楽で生きていく覚悟が決まらなかったんですよ。だから、音楽以外に興味のあるものを探したりもしました。それでも「やっぱり、こっちだよな」と音楽を続けていたんですけど、いざパリの音楽院に行くことになったら、その不安が日を追うごとに大きくなったんですよね。

 音楽を作っても、作品の良し悪しって聴いた人によって違うし、ましてや現代音楽なんて普通の人が聴いたら「なにこれ?」ってなる音楽ですから。そもそも音楽や芸術って、ハッキリするものではないじゃないですか。

ーーあらゆるものがモヤモヤしてグラついて、しかたがなかったと。