その長い5年間に僕の支えやモチベーションとなったのが、平下さんというアシスタントコーチの存在ですね。同い年ぐらいの方で、いつもトレーニングに付き合ってくれて。
雨の日は、河原にある2キロのランニングコースを走っていたんですけど、平下さんが傘を片手にタイムを計ってくれました。アカデミー以外のコートを借りて練習するときも来てくれて。僕は彼に払えるお金もなかったので、すべてボランティアでした。僕が続けられたのは平下さんのおかげです。
東京オリンピックのトライアウトの最終選考に残り、少しづつ注目されるように
ーー寝ても覚めてもテニスだったようですが、どうやって生計を立てていたのですか?
市川 月曜日から金曜日は、朝から夜まで練習。土曜日は、午前中まで練習。土曜日の午後と日曜日はフルで家庭教師と塾の講師を入れて。
家庭教師の時給が良かったので、なんとか生活が成り立っていましたね。まぁ、ギリギリではあるので、クレジットカードが止まったり、電気やガスを止められたこともありました。貯金なんて、10万円以上になったことないですね。
ーー東京オリンピックのトライアウトに挑んでいますが、それがプロになる足掛かりを掴むきっかけに?
市川 2014年に東京オリンピックへ向けて、身体能力に優れたアスリートを発掘してスポンサーするトライアウトがあって。実技試験で最終選考まで行ったんですけど、平下さんとずっとトレーニングしまくっていたおかげで、いつの間にかすごく走れるようになっていました。
そこで最終に残ったことで、開成から東大、25歳からテニスを始めたキャリアが異色だって日刊スポーツが記事にしてくれたんです。それで用具提供のスポンサーがついて、ちょっとずつ注目されるようになりましたね。
自分でスポンサーを探し回って資金を調達
ーートライアウトのときは、すでにテニスアカデミーを辞めていたのですか。
市川 いえ、当時もアカデミーにいて、厳しかったアカデミーのヘッドコーチが記事を見て用具提供のスポンサーを紹介してくれました。
ただ、僕は前々からヨーロッパに行きたいなと思っていて。やっぱりテニスは、ヨーロッパで盛んな競技なので、日本を出て勝負がしたかったんですよ。テニスを始めた頃から海外のアカデミーとコンタクトも取っていて、どのぐらいお金が掛かるのかとかいろいろと確認していたんです。行くつもり満々だったけど、踏ん切りがつかずにいて。
でも、トライアウトでスポンサーがついたし、その前後から試合でもちょっとだけ勝てるようになってきたんですよ。
ーーこんなこと言ってしまうと失礼ですが、貯金が10万円を切るような経済状況だったわけですから、海外に出るのは難しかったのでは。
市川 自分でスポンサーを探し回って、資金を集めました。
ーーいくら集まりました?
市川 450万円です。