なぜ仙台が「杜の都」と呼ばれるのか
仙台という城下町はちょっと変わった造りをしていたようだ。ふつう、お城を中心に濠が幾重にも張り巡らされ、城の近くに武家屋敷、その外側に町人地が配置される。
ところが、仙台の場合は広瀬川がお濠代わりになっているだけで、城下町の中にはお濠は設けられなかった。いっぽうで街道沿いの町人地以外はおおざっぱに武家屋敷が置かれた。つまり、武家地と町人地が混在するような造りだったのだ。
そして、伊達政宗ら歴代藩主は武家屋敷に植林を奨励した。仙台平野はもともと宮城野と呼ばれる草地で、木々が少なかったからだという。奥州街道沿いの商業地から少し脇に入ると、広大な武家屋敷とそれを取り囲む屋敷林。
それが、仙台の町が「杜の都」と呼ばれるようになったきっかけだった。実際に「杜の都」の言葉が使われるようになったのは大正時代くらいかららしいが、少なくとも江戸時代から仙台の町は人工的にあちこちに木々が植えられた杜の都だったのである。
そうした特徴は近代以降も継承される。明治時代の観光案内でも、仙台は緑豊かな町であるといった紹介が見られる。その頃も、町の中心は仙台駅からまっすぐ西に伸びる大町通りと国分町通が交わる芭蕉の辻であった。
仙台には陸軍第2師団が置かれ、駅の東側には第4歩兵連隊、また宮城野原練兵場なども置かれる軍都としての側面もあった。そうした事情もあって、大戦末期には仙台空襲によって市街地のほとんどが灰燼に帰す。
いまの仙台の町並みは、戦後の復興で新しく計画されたものだ。駅前の目抜き通り・青葉通や南北の大動脈である東二番丁通りなども、戦後復興の中で生まれたメインストリート。ただ、そこにも「杜の都」のDNAは生きていて、建設時から並木道として計画されている。
ちなみに、仙台駅の東側にあった工場群や鉄道施設、また陸軍の施設などはほとんどが戦後姿を消すことになる。いわゆる“駅裏”だった東口は、いまではヨドバシカメラをはじめとする商業施設が建ち並ぶエリアだ。
まっすぐ東に向かう宮城野通(これももちろん並木道)を進むと、戦前には陸軍第4歩兵連隊の兵営があった榴岡公園。そのさらに東には、陸軍の練兵場だった跡地に楽天モバイルパーク宮城がある。隣接する仙台貨物ターミナル駅も練兵場跡地だ。