篠田正浩監督は、映画作りを通して一貫して日本の原点を探ろうとしていた。しかも、保守思想というより、民俗学的なアカデミックな好奇心で。
そして、彼の描く「日本」の核には、妻でもある岩下志麻が据えられていた。『卑弥呼』における卑弥呼、『桜の森の満開の下』における桜の化身たる狂女――。多くの役が尋常な存在ではない。そのため、役作りは困難なものになる。といって、岩下が脇の甘い表現をしてしまえば、篠田の狙う「日本」像は描けなくなってしまう。しかし、岩下は徹底したアプローチによる役作りで演じ切っていった。
今回取り上げる『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』はその最たるもの。
「瞽女」とは、三味線を弾き歌を歌いながら町から町へと集団で移り歩く盲目の女芸人のこと。彼女たちには男と関係を持つと「ふしだら者」というレッテルを貼られて集団を追放され、「はなれ瞽女」として単独で行動しなければならない掟があった。主人公のおりん(岩下)もまた、そうした「はなれ瞽女」だった。おりんが謎めいた男(原田芳雄)と出逢い、旅をする過程を通して物語は展開していく。
本作で篠田は、近代化していく中で失われた「日本」を描こうとしていた。その「日本」とは、「昔の瞽女たちが歩いていた農村の景色」。これを映し出すため、往時の面影の残るロケ地を巡り、カメラマンにも当時世界一の腕を誇る宮川一夫を起用している。そして、これが見事に功を奏する。
冒頭の荒波の打ち寄せる鄙びた漁村をはじめ映し出される全てが「これぞ日本の原風景」と思いたくなる、郷愁と情感豊かな映像美であった。
ただ、一つ問題がある。いくら背景が往時そのものだったとしても、そこにたたずむ岩下が「瞽女」に見えなければ、全ては台無しになってしまうのだ。しかも、岩下はどちらかというと華やかな目鼻立ち。イメージからすれば、「はなれ瞽女」ではない。
それでも、岩下はこれを乗り越える。発売中のインタビュー本『美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道』によれば、日常から目を閉じて暮らすことで暗闇恐怖症を克服、「瞽女」の生き残りたちにも丹念に取材し観察、その動きを徹底的に研究したという。結果、目を閉じたままでも、三味線を弾いたり、前を誰が通ったかを判断できるようになった。
こうした役作りの成果で、動きもたたずまいも実にナチュラル。長いこと盲目で暮らしてきたようにしか見えず、円(つぶ)らな瞳の輝きを封印しての奥ゆかしく素朴な姿は、美しい背景と完璧に調和していた。
女優を信頼して困難な役を振る監督、その期待に応える女優。最高のコンビである。