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“貨物路線”のひとつだった「蘇我」という町

 1963年には京葉臨海鉄道が蘇我駅から海沿いに分岐する形で開業、埋立地に進出して千葉貨物駅という貨物駅を開業させている。1988年に京葉線も蘇我駅まで乗り入れるようになった。

 そもそも京葉線は工業地帯の貨物路線として計画されたもので、いまのような稀代の旅客路線になろうとは誰も想像していなかったに違いない。いずれにしても、このあたりまではいかにも工業都市らしい歴史を刻んできた。

 この工業都市としての蘇我の町の本質は、いまも変わっていない。ただ、湾岸道路沿いの工場敷地の一部がさらに沖合に移転したことで遊休地が生まれ、そこに蘇我スポーツ公園ができた。2005年のことだから、ずいぶん最近のお話である。

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 そこにジェフが移転してきてホームスタジアムとなり、それまでの工場一本槍だった蘇我の町は、スポーツの町という新しい側面を持つようになったのである。

 

 曾我野といった時代の面影をかすかに留める房総往還。その道沿いには、比較的規模の大きな一戸建てがいくつも残っている。工業都市になるより前から、この地に暮らしていた人たちの家なのだろうか。そうした古い街並みは工業都市・スポーツ都市に飲み込まれてしまった感はある。

 とはいえ、大都市のターミナルのひとつにも関わらず、駅の周りに多数のタワマンが建っている、というようなことはない。房総往還沿いの古い家の塀には、「マンション建設反対」と掲げられていた。ささやかな抵抗がいつまで続くのかは別として、蘇我の町は“工業都市”としての性質を強くしてきたおかげもあって、昔からの家並みもいくらかは残されたということなのだろう。

 

 房総半島の入り口にして、ジェフのホームスタジアム、そして製鉄所。近世以来の港町と街道町に戦後になってから工業都市が加わった。東京から京葉線に乗って東京湾を眺めながら旅をして、行き着いたところはそんな町であった。

 京葉線のほかの駅の周りを見てみると、すっかり集客施設とタワマンだらけ。もしかすると、この駅周辺もいつかはタワマンが建ち並ぶ街になってしまうのかもしれない。ただ、古今の海沿いの町の歩みが凝縮された、蘇我の町を歩けるのはいまのうち、なのだろうか。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。次のページでぜひご覧ください。