そして1999年にJRセントラルタワーズが完成し、続けて駅周辺にミッドランドスクエアやJRゲートタワーなどの再開発ビルが次々に生まれた。その結果、新幹線アクセスも良好な“名駅”の価値がますます高まり、名古屋の中心市街地の一角としての立場を確固たるものにしたのである。
こうした歴史からもわかるように、名古屋駅周辺の町は東側にあった城下町時代からの中心市街地が駅に向かって拡大する中で形作られた。そうなると、問題になるのは西口である。線路というのはどうしても町を分断してしまう。だから、市街地としての発展が名古屋駅の西口側に及ぶのには、少々時間をかかってしまったようだ。
「倶利伽羅紋々がピストルで…」“名駅”ゾーンと明らかに違う雰囲気の源流
豊臣秀吉の生誕地が名古屋駅西側にあるということから「太閤通口」と名付けられた西口も歩こう。新幹線のホームが駅前広場からも見えるほどに簡素で、高速バス乗り場やビックカメラなどもあるにはあるが、東口(桜通口)の圧倒的なパワーと比べるといささか弱い。
少し奥に歩くと、地場のビジネスホテルなどが建ち並びつつ、その合間には猥雑感も漂う類いの店も建ち並ぶ。太閤通口を出て20分ほどまっすぐ歩くと、かつての遊郭街(中村遊郭、いまも歓楽街になっている)に通じているなど、桜通口の“名駅”ゾーンとは明らかに雰囲気を異にしているのだ。
これは、明らかに市街地の発展が駅西側に及ぶのが遅かったから、といっていいだろう。戦前には国鉄による弾丸列車計画(新幹線の前身計画)の駅用地として駅西側の一部が買収されている。
しかし、弾丸列車計画が実現することなく終戦を迎え、買収済みの用地にはヤミ市が立った。バラック建てのヤミ市が駅前に広がり、まるでスラム街と化したという。国鉄や名古屋市の当局が退去を求めてもなかなか応じず難儀したらしい。
東海道新幹線建設の過程をまとめた『東海道新幹線工事誌 名幹工編』には、「現地調査に行っても倶利伽羅紋々がピストルでおどかすといった調子で傍観の他なかった。危険を犯して有刺鉄線を附したまくら木を二重に打って防護しても翌日行ってみるとそれを利用して屋根をふいて住っているといった状況にあ然とする他なかった」とある。名古屋駅の西口は、これくらいにハードな街になっていたというわけだ。