ロープを「絶対離さない」
ロープはビシッと固く張っていた。本船が転覆しても、パラシュート・アンカーが利いているのだ。転覆した第58寿和丸を挟んで、前方にパラシュート・アンカー、後方にレッコボート。それらが一直線に並んでいる。
しかし、豊田と大道は少しも安心できなかった。レッコボートとつながるロープにたどり着いたといっても、波がくるたびにロープごと海中へ引きずり込まれる。次の瞬間は海面に出ても、また沈む。その繰り返しだ。ロープを握った大道は「絶対離さない」と言葉に出して自らを奮い立たせた。
その時だ。
40センチほどの流木が豊田の手に当たった。右手でがっしりつかまると、意外に浮力がある。体が安定した。
豊田は「助かったらこの流木を持ち帰って神棚に飾ろう」と考えた。
レッコボートを目指して
レッコボートへは、先に新田がたどり着いた。
全長9メートル、幅3.5メートル。本船とロープでつながったボートは、波に船首を向けて海面を叩きつけるように大きく揺れている。危なくて前方には近づけない。新田はボートの右側に回り込んだ。船体のへりまでは海面から70センチほどの高さがある。波にもまれながら、この高さをよじ登るのは容易ではない。海の中だから足の踏ん張りは利かず、へりまで簡単に手が届かない。潮の流れも速く、一瞬でも気を抜くと、ボートから遠ざかりそうになる。2度、3度……。どうにか手が届くところまでへりが下がったタイミングをとらえ、新田はやっとの思いでレッコボート上に転がり込んだ。
しかし、新田はひと息ついている場合ではなかった。
急いで、第58寿和丸とレッコボートをつなぐロープを切断しなければならない。そのままにしておくと、沈む本船に引きずり込まれ、ボートも一緒に海中へ没してしまうからだ。豊田と大道がそのロープをたどってレッコボートを目指しているとは思ってもいない。2人の姿も目に入っていない。
新田は再び海に飛び込み、ボートに積んであった間切包丁を使ってロープを切ろうとした。ところが、ピンと張ったロープは鉄の棒のようだ。硬くて、簡単には切断できそうにない。間切包丁を何度当てても切れない。
疲れてふと周囲を見渡すと、ロープを伝って近づいてくる豊田と大道が見えた。
「すぐにロープが切れなくてよかった」と、新田は心から思った。
近づく大道が何かを叫んでいる。
「レット投げろ!」
そう言っていた。レットとは、船の係留に使うゴム製の道具のことだ。しかし、浮力はほとんどない。新田はとっさの判断で、赤い救命浮き輪をロープにつなぎ、レッコボートの上から投げた。大道がそれにつかまった。新田が力任せに引き寄せる。すぐそこまで大道が来た。引き上げようと手を伸ばし、大道の手を握ろうとした――その途端、手がヌルッと滑った。大道の手をしっかりとつかめない。握り直してもまた滑る。やっとの思いで大道を引き上げた。見ると、大道の体は全身が真っ黒になっていた。油である。