見えなくなった甲板長
ほどなくして、甲板長の伊藤が泳いできた。豊田と大道の2人と同じ浮きにつかまる。まともに言葉を発せる状況ではない。波は何度も襲ってくる。
3人はロープの同じ部分をつかんでいたので、体が密集し、足がぶつかった。それが原因だったのか、伊藤は周囲を見渡し、浮きのロープから手を放した。豊田と大道を残し、離れていく。5メートルほどの場所に梱包したままの新品のロープが浮いている。伊藤はそれを目指し泳いだ。
ところが、梱包ロープには大人一人を支えるほどの浮力はないようだった。波にもまれた伊藤の頭が海中に沈み、見えなくなる。やがて、梱包ロープから手を放し、再び泳いでどこかへ向かい始めた。
それが伊藤の姿を見た最後だった。
豊田と大道の周囲には、いつの間にか黒い油が浮いていた。2人は溺れかけている。命からがらの2人にとっても、海の黒さは際立っていた。白いはずの波頭も黒っぽい。油の混ざった海水が豊田の口に入る。言いようのない不快な感覚が口の中に広がった。飲んでしまわぬよう吐き出す。髪も体も油まみれだ。
「人にはつかまれない」
豊田はペットボトルでもなんでも浮いているものを必死につかもうとした。ようやく何かにつかまったと思ったら、人間の背中だった。すぐに手を放す。
「人にはつかまれない」
生死の狭間でもがきながらも、豊田はそう思った。
「誰かいないか! 助けろ!」
興奮した大道がそう叫んだ。それを先輩格の豊田がたしなめた。
「疲れっから大きな声を出すな! 無駄な体力使うな!」
船が転覆する瞬間、大道は仲間4、5人が海に投げ出されるのを見た。彼らはどうしているのか。この海のどこかで、自分たちと同じように波にもまれているのか。そんなことが頭をかすめた。でも、今は他人のことを考えている場合ではなかった。大道自身が生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。この浮きのロープを手放したら、まず助からないだろう。
豊田も同じだった。
ロープをしっかりつかんでいるものの、速い潮のせいでどんどん流された。助かろうと思ったら、何かにつかまっているしかない。
「泳いでも1時間も持たない」
豊田はそう思った。生きる望みを押し潰すかのような恐怖を伴って、波は人をもてあそぶ。どうすることもできなかった。泳ぎには自信があるのに、泳げない。
豊田と大道は、球形の浮きに体を乗せているわけではない。ぶら下がっているロープを握っているだけだ。波が来ると、体はのまれる。何回も頭が全部波に入った。油が容赦なく口や鼻や目に入ってくる。ようやく顔を上げ、息を吸っても、次の瞬間にはズボンと海中に頭が没した。その繰り返しだった。
「助からない、もうここで死ぬんだな」と大道が覚悟したのは、まさにこの時だった。