がんを周囲に打ち明けて、1番嫌だったこと
──がんをカミングアウトして、周囲の反応に戸惑われたとか。
内澤 ごく初期だったので、自分ではすぐ死ぬことはないだろうと思っていたのですが、がんという病名の重みが悲壮感を増すのか、周囲の反応には驚かされることが多かったですね。今でも周囲にがんであることを打ち明けると大騒ぎになりますけど、1番嫌だったのは「もうすぐ死ぬ人」扱いされることでした。鎌倉に住む両親にがんだと知らせて動揺されるのも面倒くさいし、しかたなく別居していた配偶者に連絡したら混乱されて、すごくブルーになりました。
──退院してからもつらい状況は続いたのですよね。
内澤 そうなんです。入院中は費用がいくらかかるかが心配だったし、手術は身内の立ち会いが必要と言われたり、術後の痛みまでなかなか大変でしたが、退院後は、さらに別の苦しみが待っていました。
手術の予後が悪くて、まるっきり動けなくなってしまったんです。家の中でイラストを描くくらいならなんとかできますが、長く歩けなくなったので取材に行けません。体力が落ちると仕事を受けるのも怖くなるので、さらに仕事が減る……。悪循環でした。
「仕事は無理だから諦めよう、休もう」とはまったく思わなかった
──内澤さんは民間の保険には入っていなかったんですか?
内澤 はい。入るに越したことはないと思いながらも、保険は毎月決まった金額を稼げる人のためのものだという考えがどうしても抜けなくて。そもそも、生活するのがやっとのフリーランスには、家賃のほかに毎月2万~3万円を引き落とされるほどのゆとりがないので、その分貯金で払うしかなかったのですが、手術入院費用がいくらかかるのかも、国の高額療養費制度があることも、術前に誰からもなにひとつ教えてもらえなかったのは、相当不安になりました。
今は「就業不能保険」なども登場しましたが、私ががんになった約10年前、保険というのは「死んでから受け取るもの」という考えが中心で、がんになってその後働くというスタイルが確立していなかったように思います。「ムリせず働く」とか「がんと共に生きる」なんて、誰も考えていなかったんじゃないでしょうか。
──そんな状況でも、仕事を休んだり辞めたり、という選択肢はなかったのですか?
内澤 仕事は無理だから諦めようとか、休もうとか、まったく思わなかったです。今にして思えば、強迫観念に近かったかもしれませんが、仕事を失って「がん患者」という肩書きしかなくなるのが怖かったんです。仕事は減りましたが、働き続けることが社会との接点でもあったので、それを失うまいと必死でした。