もともと熊本は、「隈本」といった。白川沿いに小さな集落が形成されたのがはじまりで、15世紀に入ってようやく京町台地のヘリに千葉城が築かれた。さらにその後隈本城が築かれ、1588年に加藤清正が入ってようやく熊本城を築く。そして、加藤清正は城下町を整備して、いまに続く熊本市街地の骨格を整えることになる。
加藤清正が整備した城下町では、お城の東側、現在の繁華街一帯には武家屋敷があてがわれた。反対に、いまは昔ながらの町の面影を残しているお城の西側と鹿児島本線・九州新幹線に挟まれた「新町」という一帯は、町屋が集められて薩摩街道が通るメインストリート。熊本城の大手門も新町側に設けられており、熊本の表玄関になっていた。
「熊本」の未来を変えた2つの戦争
もしもこのときのままの町割りが受け継がれていたら、繁華街はお城の西側に広がっていたのかもしれない。ところが、熊本は明治以降に二度の戦争に見舞われて、町は何度も大きく作り替えられることになる。ひとつめの戦争は西南戦争で、ふたつめは太平洋戦争である。
どちらの戦争でも、熊本の市街地は焦土と化した。とくに被害が大きかったのは西南戦争で、新政府軍と西郷隆盛率いる薩軍が正面から激突する激戦地になった。
西南戦争後に熊本の町は復興される。そのとき、お城の東側は軍用地として政府に接収されている。もともと武家地だったのだから、軍用地になるのは自然な流れともいえる。ただ、いまの繁華街ゾーンが明治時代まで軍用地だったというのは、少々意外な話である。
西南戦争後の熊本は、軍都になる。1871年に鎮西鎮台が置かれたのを皮切りに、熊本城内を中心にその周辺を含めて広く軍用地になった。軍都には遊興の場がつきもので、二本木(熊本駅南東側の白川沿い)にあった遊郭はたいそうな賑わいだったという。熊本のソープ街が知られるのは、そうした歴史を受け継いでいるからなのだ。
明治の終わり頃には軍用地の一部を郊外に移転させ、そこで新たに生まれたのが「新市街」と呼ばれるアーケード一帯の商業ゾーン。さらに、その南側の白川沿いを中心に繁華街が形成されていった。