武家地から軍用地、そして繁華街へ…なぜ「熊本」はこれほど変わることができたのか?
しかし、再び熊本は太平洋戦争で空襲に見舞われてしまう。いまの熊本の街路は、戦後の復興の中で形作られたものだ。1952年には電車通りに鶴屋百貨店が進出し、それを契機にあっというまに繁華街が生まれる。電車通りより北側の上通はもともと町人地で、そこと結びつく形でいまの広大な繁華街ができたのだ。
つまり、いまの熊本の市街地は、西南戦争と太平洋戦争というふたつの戦火によって町が作り替えられた結果といっていい。そのベースにはいつのときも熊本城とその城下町という加藤清正の築いたものがあるのだが、だからこそ、武家地から軍用地、そして繁華街という役割の変遷が興味深く感じられる。
熊本の市街地は、もちろんまだまだ外に広がってゆく。電車通りから国道3号を渡ってさらに白川も渡ると、その先にもイオンがあったり水前寺成趣園があったり、大都市・熊本の勢いは衰えない。
路面電車の終点・健軍町のすぐ近くには陸上自衛隊の健軍駐屯地。戦前・戦中には陸軍の飛行場や三菱の航空機製造工場だった場所で、昔ながらの商店街も残っているらしい。健軍とは、きっと軍隊にまつわるところから名付けられた地名に違いない……。
と思ったら、軍がやってくるよりもはるか前の時代から、地図には「健軍」の名が見える。もともとは「けんぐん」ではなく「たけみや」と読んでいたという。その地に鎮座する健軍神社は、熊本市内でも最古の神社なのだとか。ここまで来ると、健軍とはいったいどんな町なのかも気になってくる。
今回は、白川を渡らず熊本の中心市街地までの旅。また熊本にやってきてくまモン先生と触れあう機会があるならば、今度は健軍を歩いてみようと思う。
写真=鼠入昌史
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