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阪神淡路大震災の大きな影響

 1966年創部の川崎製鉄水島サッカー部を母体とする神戸は、日本サッカーリーグ2部から這い上がり、1995年にチーム名をヴィッセル神戸に改めJリーグ準会員になった。ところが新生ヴィッセル神戸の初練習が1995年1月17日の阪神淡路大震災と重なってしまう。

 苦難のスタートを切った神戸は、それでも1997年にJリーグに加盟。神戸市に本拠を置くダイエーがスポンサーについた。しかし阪神淡路大震災をきっかけに業績が傾き始めたダイエーが突如、スポンサーを降りてしまう。

 これ以上、市の財政では支えきれないと判断した神戸市は2003年、神戸出身の三木谷に支援を要請する。これが優勝セレモニーで三木谷が明かした逸話までの経緯である。

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 実は阪神淡路大震災は三木谷の人生にも大きな影響を与えている。一橋大学を卒業し、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)でエリート街道を邁進していた三木谷は、震災で叔母夫妻を亡くした。この時、三木谷はこう思ったという。

「遅かれ早かれ人は死ぬ。だったらやりたいことを思い切りやるべきではないか」

 三木谷が旧興銀のエリートコースを捨て、起業の道に入るきっかけになったのは震災だった。

写真:楽天提供

 個人的な動機でヴィッセルの支援を決めた三木谷は、2004年にヴィッセル神戸の運営会社、楽天ヴィッセル神戸を設立した時、全額を個人の資産会社から出資した。楽天グループが企業としてヴィッセル神戸の経営に本格的に関わるようになるのは2014年以降のことである。

 このためヴィッセル神戸は三木谷家のファミリービジネスに近い建て付けになっている。三木谷が個人で出資した頃から、父親の良一は運営会社の取締役を務めていた。大学で学生と酒を酌み交わしながら議論をするのが好きだった良一は、ヴィッセルの若い選手たちにも「頑張れ、頑張れ」とエールを送り続けた。告別式で選手たちが号泣したのは、良一と彼らの間に深い絆があったからだろう。

 今も運営会社の会長は三木谷本人で副会長が兄の研一。母親の節子も監査役に名を連ねている。2004年の出資以来、一家で支えてきたヴィッセルの初優勝は三木谷にとって格別なものであるに違いない。