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――唯一、生活感ある描写といえば、捜査本部に詰めている葛が菓子パンとカフェオレを摂取するシーンですが。

米澤 これは、ホームズを意識していますね。満腹は頭の回転を妨げるという思考機械的な生活態度ゆえですが、とはいえ脳の活動にはブドウ糖が必要ですから糖分摂取のために菓子パンを食べる。じゃあなんでコーヒーではなくカフェオレかというと、ブラックでは胃に悪いからせめて牛乳入りを選んでいる(笑)。

――こういうキャラ立ての方法もあるんだなと思いました。

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米澤 輪郭を描かない、朦朧体のような手法は意識していたかもしれません。

凶器当てと偽の手掛かり

――そんな葛警部の初登場作は巻頭の「崖の下」。遭難したスノボ仲間2人のうち1人が刺殺体で発見され、犯人は一緒に救助されたもう1人としか考えられないのに、雪山の孤立した現場で凶器となるものが見つからず……という“凶器当て”の1編です。

 原稿を途中まで拝見して、雪山、崖ときた時に、まさかとは思うけどアレが凶器だったら米澤さんに一言申さねば、と(笑)、ドキドキ読み進めたのを覚えています。

米澤 いわゆる“御相談”というやつですね(笑)。その反応はしてやったりで、「アレを使ったのでは?」と思わせるのは典型的なレッドへリングです。

――本格ミステリ用語ですね。

米澤 レッドへリングとは燻製ニシンのことで、強烈な臭いで猟犬の鼻をも惑わしてしまう。転じて、推理を誤った方向に誘導する偽の手掛かりを指します。もちろん、偽の手掛かりを出しっぱなしではいけないわけで、「崖の下」でも作中で提示した情報を引き合わせるとアレの可能性は排除できるように書いています。

――他にも、真相が解ってから再読すると「あっ!」と声の出る一文があります。

米澤 ミステリ的な遊びということで……。ふざけるわけでなく、ユーモアを直接的なユーモアシーン以外の形で潜ませるのは好きです。

 凶器が焦点になるのは、どうやって犯行がなされたかを問う、つまりハウダニットの趣向です。凶器当てとして古典的な作品に松本清張の、タイトルもずばり「凶器」『黒い画集』所収)があります。この中では監察医による鑑定書の内容が詳述されているんです。凶器特定の手掛かりが読者に明示され、ゆえに真相にも説得力がある。「崖の下」で監察医が所見を克明に伝える場面は、清張が源流にあったかもしれません。

人間の観察力は当てにならない

――続いて「ねむけ」。先ほど申し上げたロス・マクの『さむけ』のパロディかと思ったら全然違って、読後にはこれしかないと思えるタイトルです。

 深夜の交通事故でどちらの信号が赤だったのかを、葛が目撃証言を集めて検証する。合致する証言が多数出て、簡単に解決できてラッキー……と物語が進むのかと思いきや、葛はそういう判断をしませんね。