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ホワイダニットの面白さと難しさ

米澤 前述の通り、「可燃物」は真正面から犯行の「なぜ」を問うホワイダニットです。逆説のミステリでもありますね。逆説といえばブラウン神父のG・K・チェスタトンが有名ですが、私は泡坂妻夫こそ逆説の大家だと思っていて、自分はそちらに学んだつもりでいます。

――放火が相次ぎますが、葛たちが見張りを始めた途端にぴたりと止む。放火犯はなぜ火をつけ、なぜ火をつけるのを止めたのか? ホワイダニットは人気の趣向ですし作例も大変に多い。しかし、あらゆる謎の中でも書くのが一番難しいものではないかとも思うのですが、いかがでしょう。

米澤 大きなくくりで言うならばフーダニット、ハウダニット、そしてホワイダニット、ミステリの謎はこの3つが代表例です。フーダニットは必ず登場人物の中に犯人がいなくてはいけないし、ハウダニットは犯行周辺に存在した物や事象を全部書かなければいけない。前二者の制約の多さに比して、ホワイダニットならば、作者も読者も人間の心を想像することはできる、つまり可能性は無限なわけです。だから、奇妙な動機やいわゆる“奇妙な味”とも相性がいい。「まさかそんな犯人がいたなんて」「まさかそんな凶器があったなんて」はアンフェアな感を与えがちですが、「まさかそんなことを考えていたなんて」は、書き方次第でとても面白いミステリになる。それだけに“何でもあり”にならないよう、フェアネスの担保に苦心するんです。

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――人の心を問うものですからね。真相に至った時に誰もが腑に落ちるように作るのはやはり相当ハードルが高い。

米澤 あまりに異様な動機に呆然として、「なんだか凄いものを読んだな」という気持ちだけが残ることはあります。そういう小説も大好きですし、傑作もいくつも思いつきます。ただ、本格ミステリという、読者と作者の間のある種の決まり事の上に成り立つ勝負としてフェアであるか否かというと、また別の話になるのでしょう。

 そのギリギリのラインを攻めている傑作が、連城三紀彦『戻り川心中』ではないかと思います。作中に描かれる心理は異常なものが多いけど、同じ人間として「ああ、たしかに人間には、そう考えかねない一面がある」と思わされる納得感がある。そこが、素晴らしいです。

――動機については「可燃物」に〈葛は動機を重視しない〉とありますね。動機とは突き詰めれば欲望だが、説明のつかない欲望というものも存在し、それは人智を尽くしても予測できない。〈予測できないものを頼りに捜査をすれば迷路に迷い込む〉、だから葛は動機を重んじない、というこれまた明快な論理です。

米澤 これについては、平石貴樹『だれもがポオを愛していた』の影響もありそうですね。探偵役の更科ニッキが堂々と動機無視を謳い、謎の本質は動機ではないということが物語でもすごくフィーチャーされていて、とても面白く思ったのを覚えています。あと、これは今気づいたのですが、〈迷路に迷い込む〉という一節はJ・L・ボルヘス「死とコンパス」『伝奇集』所収)にある、「おまえの迷路には三本、余計な線がある」というフレーズのイメージから来たのかもしれません。一本の直線でできているギリシアの迷路の中でも多くの哲学者が道に迷った。推理に余計な線があっては刑事が迷うのは当然だ、というくだりですね。