10年ぶりぐらいの対面ではあったが、氏はさらに貫禄を増し、圧倒的な存在感は何ら変わっていなかった。それでも、「やあ、久しぶりだね」というふうな、10年もの御無沙汰を感じさせない氏の気さくな応対に、こちらの緊張もすぐに解けた。
私の申し出は意外なほどあっさり受け入れられた。氏に対して取材の申し込みはそれまでも多方面から少なからずあったと聞くが、本人はそれを大概断っていることも、私は知っていた。どこを気に入ってくれたのか、氏はなぜか私には好意的なのだった。
タイミングもよかった。ちょうどその頃、両者の雪解けが始まって、沖縄ヤクザ界はかなりよい方向に向かっていた。長い間、緊張関係にあった両陣営の統一の機運もにわかに高まって、まさにその機が熟しつつあったのだ。ついにはこの年11月26日、悲願の一本化が実現。「旭琉會」が誕生し、その発足及び富永会長を親とし同會幹部19人を子とする親子盃の儀式が執り行われたのだった。
私はこの儀式のシーンを、実録小説「旭龍 沖縄ヤクザ統一への軌跡──富永清・伝」(幻冬舎アウトロー文庫)冒頭でこう綴った。
《──とうとうここまで辿り着いた……。目の前に居並ぶ男たちを見遣るにつけ、万感胸に迫っていかんともしがたいものがあった》
「ドンが来ている!」冨永会長は沖縄裏社会の顔だった
《名実ともに沖縄ヤクザ界のドンとなる男──富永清は、改めて気を引き締めて「子」となる者たちを見据えた》
この「旭龍」は翌平成24年7月から丸1年間、週刊誌の連載が続いた。富永会長との交流(取材)は、3年越しに及んだわけで、それは私にとって得難い時間となった。取材場所は専ら中頭郡北中城の同會ゲストハウスの応接室や会長室であったが、時として地元沖縄(コザ)市の中の町や諸見百軒通り、あるいは那覇・松山などの夜の街に繰り出すこともあって、富永会長という人格に接し、その風格に触れるにはまたとない機会だった。
かつてのコザ最大の繁華街で、富永一家の事務所もあったという諸見百軒通りは昔日の面影はなく、会長も、
「今や、別名“年金通り”と呼ばれてますよ」
と苦笑したものだ。
また車で那覇・松山に赴いた時、仰天したのは、
「ドンが来ている!」
というので、どこでどう聞きつけたものなのか、店のまわりにたちまち野次馬が群がったことだ。まさに沖縄裏社会のスーパースターなのだ──と実感させられた瞬間だった。