アウトロー評伝を数多く手がけてきた著者は、多くの親分たちを取材してきた。いかにしてヤクザたちの懐に入り込み、その生い立ちから極道としての信条までを聞き出してきたのか――。ここでは『極私的ヤクザ伝 昭和を駆け抜けた親分41人の肖像』(徳間書店)より一部抜粋。旭琉會・富永清会長の言葉と共に“沖縄ヤクザ”が統一されるまでを辿る。(全2回の前編/続きを読む)

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「沖縄ヤクザ史」がそのまま個人史と重なる

 長らく米軍の統治下にあった沖縄が本土復帰を果たしたのは、昭和47年5月15日のことで、令和4年はちょうど50周年にあたる。

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 その5月15日を生誕の日としたのが、沖縄ヤクザの“顔”でもあった旭琉會の富永清会長で、本土ヤクザとの熾烈な戦いを繰り広げた歴史を知っている身とすれば、それはイロニーというか、何か象徴的な符合であるような気がしたものだ。

富永清会長 写真:徳間書店提供

 旭琉會関係者が時々、口にしたのは、

「実は本土復帰の日は、富永会長の誕生日に合わせたものなんですよ」

 とのジョークで、それを真に受けてしまう本土の同業者もいたというから、なんともはや……。それだけ沖縄におけるドンとしての富永会長の力量や存在感は、飛び抜けていたということであろうか。

 確かに半世紀にもわたって血で血を洗う抗争に次ぐ抗争、分裂と大同団結を繰り返し、一本化は不可能とされてきた沖縄ヤクザ界の統一が実現できたのも、

「富永会長なくしてはあり得なかったであろう」

 と、業界筋では言われ、まさに不可能を可能にし、奇跡を呼び起こした──と評されるゆえんである。

 私も氏と接することで、よくそのことが実感できたし、何よりも、そのいわく言い難いカリスマ性に魅入られたものだ。

昭和61年、沖縄ヤクザ界にはまだキナ臭さが残っていた…

 私が沖縄を訪れ、初めて富永会長にお会いしたのは昭和61年春のことで(当時は三代目旭琉会理事長)、その後も何度か取材させてもらう機会があった。が、平成に入るや、沖縄ヤクザ界はまたぞろキナ臭くなる。三代目旭琉会と沖縄旭琉会とに分裂し、第5次抗争が勃発。2年にわたった抗争もどうにか終結を見たものの、両者の緊張関係はそのままに予断を許さぬ状況が続いていた。

©AFLO

 そんな中、私が久しぶりに富永会長を訪ねたのは平成23年初夏のことで、私の用件は取材というより、ズバリ、

「富永会長の評伝を書かせて頂きたい」

 との申し出であった。