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 が、2年生の時、寮の先輩の理不尽なヤキに我慢できず、傷害事件を起こし退学を余儀なくされる。体育教師になる夢も破れ、失意のままに沖縄・久米島に帰郷。1年後にコザへ渡り、ヤクザの門を叩いた。

賭博中毒の米兵はバズーカ砲まで抵当に入れてバクチを打った

 世が世であれば、沖縄裏社会のドンならぬ体育教師の道もあったのだ。なるほど、体育教師!!  私など、そこに大きな落差を感じるどころか、逆に腑に落ちるというか、むしろ、さぞや生徒に人気の熱血教師が誕生していただろうなと容易に想像もついた。

 氏は、ヤクザという生きかたを選んだことに対し、こう述懐したものだ。

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「当時、普天間抗争が新聞で連日報じられていて、山原(コザ)派の幹部には、久米島の大先輩もいたし、血の滾りを覚えたんです。そういう世界へ裸一貫で飛びこんで、どこまでやっていけるか、自分を試してみたかった。この渡世に入ったことは後悔してません。自分が想像してた以上に男っぽい世界でしたし、男として共感できる先輩たちにも出会えましたからね」

 沖縄と本土ヤクザとの違いは博奕ひとつとっても明らかで、コザの常盆はホンビキやバッタマキならぬアメリカンダイス。賭場は米軍基地の中のカマボコハウスと呼ばれる営舎で、そこは治外法権でもあった。米軍責任者に相応のチップを渡せば、簡単に借りられたという。

 修業時代の若き富永会長が賭場でつとめたのは、ホンビキでいえば中盆にあたるステッキマンという賭博の進行兼仕切り役。

 客の米兵の中には、負けが込んでくると、基地の中の武器を横流ししてカネを作る者も出てきた。45口径の大型拳銃やカービン銃、手榴弾……等々が博奕の抵当となったのだ。もっと仰天するような話もあって、

「焼きイモ屋の煙突のオバケみたいな、バズーカ砲まで持ってきた賭博中毒の米兵もいましたよ」

 さすがにバズーカ砲まで登場することはなかったが、本土では考えられないような武器が使用される沖縄抗争の凄まじさは、広大な基地を擁する特殊な事情があってのことだった。

 コザ派のドンで富永会長の親分であるミンタミー(目玉)・ヨシミーこと新城喜史は、ギョロ目の顔役、「ツメの先まで沖縄ヤクザ」といわれる一方で、無類の賭博好き、博奕狂としても知られるボスだった。

「好きだけど下手。マカオのカジノで20万ドルを一晩でスッても顔色ひとつ変えないんですよ。帰りの車の中では、高イビキをかいて寝てしまうような肝の太さを持ってましたね」

 と富永会長。