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 私が氏から強く感じたのは、よく言われているような図抜けた手腕や器量、見識ということ以上に、その芯にある真面目さであり、なかなかのロマンチストであるということだった。カラオケで好んで歌うのは「忘れな草をあなたに」「あざみの歌」といった抒情歌であり、ゲーテをこよなく愛し、

「人生長さゆえに貴からず、たとえ一瞬であったとしても、男の人生にとって欲しいのは“光彩”ではないか」

「いつも現在を楽しみ味わい、人を憎まぬこと。そして未来は神に任しておけ」

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 とのゲーテ語録を手帳に書きとめておくような人物が富永会長であった。

沖縄ヤクザが生まれたのは米軍占領下、終戦直後だった

 そんな会長が最も苦悩したのは、抗争で誤射事件が発生し高校生や警官を死なせてしまった時だった。抗争相手側が引き起こした事件とはいえ、その責任を転嫁するつもりなどなく、

「いっそ腹を切って、お詫びしようか」

 とまで思いつめ、後々まで胸の痛みがとれることはなかったという。

 それだけになおのこと沖縄ヤクザ界の平和と統一は、富永会長の悲願ともなったのだった。

「そりゃ長かったですよ。けど、一応の道筋はつけて次の若い世代への責任の一端は果たしたということです」

 と、氏はしみじみと語ってくれたものだ。

 かつて一切存在しなかったヤクザが、沖縄に誕生したのは戦後のことである。

 米占領軍が設置した県民収容所の中から登場した“戦果アギャー”(戦果を挙げる者の意)と呼ばれる猛者たちが、その原点とされる。つまり、米軍隠退蔵物資の略奪者である彼らこそ、沖縄ヤクザの祖なのだったが、その歴史は戦国時代さながらで、

《沖縄の暴力団の歴史は、鮮血に彩られた対立抗争の歴史である。分裂しては闘い、潰し合い、そして統一し、再び争って分裂することを繰り返してきた》

 と警察資料にもあるように、血みどろの抗争に次ぐ抗争の歴史であった。

 終戦直後(昭和21年)に生まれ、まさに沖縄ヤクザ史がそのまま個人史と重なる旭琉會・富永清会長の生涯もまた波瀾万丈、苦難と試練、重圧の連続で、終生、気の休まる暇とてなかったのではあるまいか。

富永清・旭琉會会長(中央) 写真:徳間書店提供

 もともとは子供の頃からスポーツ万能、高校で出会った柔道に打ち込み、その名門校である国士舘大学に入学後も有望選手として期待され、本人も日々柔道の稽古に励んでいた。