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銃弾に斃れ、血の海に沈んだミンタミー。脳髄はクラブの床に飛び散っていた

 ヤクザ渡世に入門するや、氏が若くして頭角を現していったのは、抗争の最中、自ら死地を志願するような胆力や武闘派ぶりもさることながら、何より掛けあいや交渉力が抜きん出ていたことにもよる。親分の新城も早くにそれを見抜いていたようだ。

 本土復帰を前に山口組が沖縄進出の動きを見せ、那覇に事務所を設置、その直参組織の若頭が来沖した時も、新城に交渉役を命じられたのは富永だった。ミンタミーはあえて24歳の富永を掛けあいの矢面に立たせ、試練を与えたのだ。

 後に沖縄のドンとなる男も、それに応え、天下の山口組相手に一歩も引かずに堂々と渡りあい、その難局を乗りきったのだった。

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 ミンタミーに可愛がられたドンは、彼が宜野湾のナイトクラブ「ユートピア」で射殺された時もガードでついていた。一瞬の隙を突かれ、ヒットマンの銃弾に斃れ、血の海に沈んだミンタミー。頭を撃たれ、その脳髄はクラブの床に飛び散っていた。

 ドンは自分の上着を脱ぎ、その飛散した親分の脳髄を上着に包み込むようにして搔き集め、涙したという。

ヤクザであることが世に背いた生きかたであっても…

 富永ドンの信念は、

「吾が義俠の意とするは其行世法不軌なりとも誠の天意を身に体して信行必ず果とする厄困に赴くすでに存亡死生す唯任俠を惜しみ其徳を恥じる」

 ヤクザであることが世に背いた生きかたであっても、自分の信じるところに従って、どんなに世間に叩かれようとどんな苦難が待ち受けていようと歯を食いしばって耐え抜き、任俠の真実を顕現することが大事なのだ──と、自分なりに解釈していた。

 会長が師と仰いだ那覇の琉球山法華経寺の鹿糠堯順という住職から教わった文言だという。何にせよ、自分が選びとった任俠という生きかたに対して、確固たる信念の持ち主であったのは間違いない。

 私にしても、氏との交流は楽しく得難く味わい深いものであった。ユーモアセンスもなかなかのもので、親友の三代目工藤会・溝下秀男会長ばりであったから、もしかしたらその影響もあるのかなと勝手に推測したりしたものだ。精悍な顔からポロッと出るジョークの巧まざるユーモア。

 今となっては、忘れられない思い出である。