インタビューはおよそ2時間弱。私が驚いたのは、当時取材する機会が多かった北海道や東北のヤクザ界で、ここまできっちり喋ってくれる親分がいるということに対してのものであった。しかも、こちらの質問に沿う形で要点を外さず、「ノドの調子が悪い」とのことで、確かに声はしわがれていて滑らかではなかったものの、悉く打てば響くように応えてくれるのだ。
概して口が重く、口ベタの人が多いとされる北海道・東北地区の親分衆の中では、稀ともいえる存在であったような気がする。
「……はっきり言って、私自身の身体が重たくない(病気がちでない)んであれば、北海道同行会をまとめていく気持ちもあったし、今の山口組との縁組もなかったと思うね。だけど、刑務所に7年間入らなければならないということになれば、私も自分の組織が可愛いし、だいたいが山口組との縁も、三代目の田岡親分との縁組の話が何回かあって、それはこっちの都合でご破算になったということもあったし……。その当時の山口組に対する気持ちもあるしさ。山口組には兄弟分もいたし、私が柳川組の北海道支部長をやった時代からのつきあいのある人間もいたし……」
総長の言うように、初代誠友会はかつて「殺しの軍団」といわれた柳川組に属したこともあり、もともと山口組は古巣であった。
それが再び一本独鈷に戻るや、「反山口組」を掲げる北海道同行会の主力メンバーとして活躍。「加茂田軍団」とも称された三代目山口組加茂田組の北海道進攻に際して繰り広げた北海道同行会と加茂田組200人との攻防戦は、今も語り草となっている。
なぜ山口組入りを決断したのか?
初代誠友会の石間春夫総長は、よりによってなぜあの時期──一和会ヒットマンによって竹中正久四代目が暗殺されたばかりというタイミングに、あえて山口組入りを決断したのか。しかも組長ばかりか同時にナンバー2の中山勝正若頭まで斃され、勢いづき意気上がる一和会に対し、山口組は創設以来の最大の試練を迎えていたと言っていい。
なおかつ石間総長はどちらかといえば、山口組より一和会のほうにつきあいのある人間が多かったというのだ。
「むろん山口組にも一会の野澤儀太郎、金田組の金田三俊、章友会の石田章六といった柳川組時代の兄弟分はいたし、一和会のほうにも旧柳川組関係者がいたわけだけど、一和会創立者の古手株とのつきあいのほうが多かったんですよ。それと、獄中の私に接触してきたのも一和会のほうが早かった。うちの事務所に最初に山本広や加茂田重政から電話があったようなんだ」
と石間総長。なおさら一和会を選択していてもおかしくなかったわけだ。