では、なぜ、一和会ではなく山口組だったのか?
私はストレートに石間総長にその疑問をぶつけたものだ。総長の答えはこうだった。
「なぜって言われれば、われわれの稼業というのは筋道──筋というもので食っているわけでしょ。やはり、一和会のとった行動というのは、筋が違ったんじゃないか──まあ、私の判断だね。山口組から出るちゅうことはおかしい、と。結局、どっちに勢いがあるかという問題じゃなくて、筋の外れた組織は選べない。筋を違えた組織がどういう末路をとるかなんてことは予測できたしね……」
その一方で、総長の口から、つい本音が漏れたのは、
「山本広という人とは深く話したことはないけど、何ていうか、肌が合わなかった。それに加茂田重政とは過去に因縁があってね、あれが一和会の音頭をとっていなければ、オレの考えも変わったかもしれないね」
というもので、要は一和会ナンバー1と2が嫌いで、ついていけるタイプではなかったというのだ。
「カタギの人から言えば、鼻で嗤うような問題かもしれんけど…」
加茂田との因縁というのは、加茂田組200人の北海道進攻よりずっと以前、石間がまだ柳川組北海道支部にいた時分のことだ。
2人はわずかの期間だが、北海道の旭川刑務所で一緒になったことがあったという。加茂田は病舎にいたが、石間は一級受刑者の被服係として割と自由に所内を歩ける立場にあった。
同じ山口組でも柳川組舎弟でエダの石間は、本家直参の加茂田のことを一応立てて、毎日煙草を調達したり、その世話をしたという。加茂田は態度が大きく、石間の兄貴分の柳川次郎を「次郎」と呼び捨てにするのも、総長は気に入らなかった。
「本人同士ならそういう呼びかたもいいかもしれんけど、オレの前では『柳川の兄弟』とか、言いかたがあるんでないかい」
と、石間は本家直参にもズケズケ物を言ったという。それから間もなくして加茂田は千葉刑務所に不良押送になったこともあって、それだけの縁である。双方にとって甚だ印象の芳しくない出会いであったことは容易に想像がつく。
ともあれ、石間総長が7年近い服役を終え宮城刑務所を出所したこの時期(インタビューは出所8日後の平成元年1月29日)というのは、一和会解散、山本広会長引退直前で、山一抗争の決着もほぼついていた。それは石間総長の予測通りでもあった。