最後に私が石間総長に訊ねたのは、
「長い間、この渡世に生きてきて、総長が一番大事にしてきたこと、信念とは?」
というもので、氏からは、
「それはね、カタギの人から言えば、鼻で嗤うような問題かもしれんけど、この渡世というのは昔も今も、それこそ徳川幕府時代から全然進歩しない稼業でもあるからね。渡世のしきたり、筋道というか、これだけは通さなきゃならないということ。それは明文化されてるわけでもないけど、それだけは厳守しなきゃならないということだね」
との答えが返ってきた。
出所後の石間総長は精力的に活動を開始。組織固めに取り組むと同時に留守中、他の広域組織に比べ後れをとった勢力拡大にも意欲的に乗り出した。初代誠友会はこの年、札幌を本拠に室蘭、函館、苫小牧、静内、帯広、稚内など、全道に隈なく拠点を築いて、わずか1年で1千人体制を豪語するなど、またたく間に膨れあがっていく。
「パーン! パーン!」北海のライオンが迎えた壮絶な最期
当然ながら、その過程で他組織との衝突が絶えず、初代誠友会は抗争を繰り返した。とりわけ凄まじかったのは、9月末、同じ札幌の稲川会系組織との間で起きた“札幌抗争”だった。わずか半日で、双方なんと60数発(!)もの銃弾が乱れ飛ぶという、前代未聞の発砲回数を記録したのだ。
私が再び札幌の初代誠友会本部に石間総長を訪ねたのは、その札幌抗争の手打ちを終えた直後のことだった。8カ月ぶりに再会した石間総長は、1月とは打って変わって、驚くほど血色も良く生気溌剌、何より覇気に溢れていた。
私が率直にそのことを指摘すると、総長はニッコリとして、
「喧嘩してるからだよ。喧嘩すると元気になるんだ。オレの一番の健康の秘訣」
と嬉しそうに応えてくれたが、とても冗談とは思えなかった。なるほど、これぞ骨の髄まで武闘派──と心底思い知らされた瞬間であった。
石間総長が劇的な死を迎えるのはそれから3カ月後、平成2年1月4日。あと2カ月で60歳、還暦を目前にしてのことである。
本部からの帰宅途中、札幌市内の北一条通り交差点に差しかかった時だった。赤信号で停車した石間の車に、拳銃を持った2人のヒットマンが襲いかかった。
「パーン! パーン!」
直後、何発もの銃声が鳴り響いたのだった。
激しい雪が舞い散る中、北海のライオンと呼ばれた男は、その名に相応しい壮絶な最期を遂げたのだった。