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武蔵野線がやってくる前には何があった?

 武蔵野線が開通する少し前、1970年前後の朝霞の地図を見ると、いまの北朝霞駅付近にはほとんど何もなかったことがわかる。航空写真を見ても黒目川沿いどころか台地の上の駅周辺も、ほとんど一面の田園地帯。そこを南東から北西に向けて東上線の線路が伸びている。このとき、朝霞台駅はもちろん存在していなかった。

 

 そして少し視野を広げると、朝霞駅付近には小さな市街地が生まれている。まだまだベッドタウンとしては小規模といっていい。その南側、川越街道を挟んだ一帯に広がっているのは陸上自衛隊の朝霞駐屯地、そして在日米軍のキャンプドレイク。いまはキャンプドレイクはなくなって、青葉台公園として生まれ変わっている。

1974年、朝霞駐屯地での自衛隊災害発生出動演習の様子。参加人員3500人を前に、模型を使って地震時の状況を説明する担当官 ©時事通信社

 キャンプドレイクや朝霞駐屯地は、もともと陸軍の予科士官学校があったところだ。ということは、朝霞の町は陸軍の町として発展をはじめたのだろうか。

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じつは100年くらいしか歴史のない「朝霞」の地名。きっかけは…

 実は、「朝霞」という地名の歴史は新しい。もともとこの一帯の中心は、川越街道の宿場町であった膝折宿。1914年に東武東上線が開業したとき、この地におかれた駅の名は朝霞ではなく膝折駅といった。このとき、まだ朝霞という地名は影も形もなかったのだからとうぜんのことだ。

 かつての朝霞は川越街道の膝折宿を中心に、周囲にはひたすら田園地帯が広がる農村だった。北側には新河岸川が流れていて、水運によって江戸と繋がっていた。

 朝霞一帯の田畑で採れた作物は新河岸川の舟運で江戸に運ばれ、反対に江戸からは肥料が運ばれてきたという。当時の朝霞は、大都市・江戸に野菜を供給する役割を担っていたのである。

 それは明治に入っても変わることなく、1914年に東上線が開通してからは舟運が鉄道輸送に置き換わっただけ。いまの、1日に10万人以上が乗り降りするターミナルが鎮座するベッドタウンとはおよそかけ離れた町であり続けた。