変化のきっかけは、1932年に完成した東京ゴルフ倶楽部の朝霞コース。このとき、ゴルフ倶楽部の名誉総裁だった朝香宮にちなんで町の名前を「朝霞」と改めて町制を施行している。朝香とはせずに朝霞としたのは、皇族の宮号をそのまま頂くことを憚ったためだろう。このとき、今に通じる「朝霞」が誕生したのだ。
なお、この頃はまだ武蔵野線の北朝霞駅の場所は朝霞町ではなく、内間木村に属していた。1955年に内間木村と朝霞町が合併して朝霞町となり、1967年に朝霞市になっている。
ともあれ、朝霞の町はこの東京ゴルフ倶楽部によってその名が生まれ、町としての発展の第一歩を刻んだといっていい。ゴルフ場は1941年に陸軍予科士官学校に生まれ変わる。それがそのまま戦後になって米軍施設になり、返還後は公園や陸上自衛隊の駐屯地になったというわけだ。
「ひたすら田園地帯で、その中に東上線の線路がひとつ」の光景が変わったきっかけ
ただ、そうした動きがあったころも、北朝霞駅周辺にはさして変化もなかった。ひたすら田園地帯で、その中に東上線の線路がひとつ。1973年に武蔵野線が開業して北朝霞駅が置かれたときも、最初は東上線側には駅すらも設けられなかったという。
いくら乗り換え駅になるとはいえ、開業時の武蔵野線の主たる役割は貨物輸送。旅客列車は40分に1本しか走っていなかった。一面の田園地帯の中にそんなローカル線の開業だから、東武さんが駅をつくろうと思わなかったのもしかたがない。
武蔵野線と北朝霞駅の開業が決まると、朝霞市はいち早く駅周辺の区画整理事業をスタートさせた。そして、設置予定のなかった東武にも働きかけて、朝霞台駅の開業も決まる。実際の朝霞台駅の開業は北朝霞駅より1年遅れた1974年のことだ。
そして、ようやくこの頃から市街地化が進み始める。当時の新聞には、北朝霞駅近くの山林を16億円で住宅公団に売却して長者番付に載ったという地主さんの話が出ている。
武蔵野線が開業した時点では、駅前にはまだまだニンジン畑が広がっていたというから、そこから半世紀で一気に駅周辺の開発が進み、いかにもベッドタウン然とした町並みが形作られた。それが、武蔵野線のカギを握るターミナル、北朝霞駅の素顔なのである。