極限状況で聞いた「ラジオ深夜便」
「今は300グラムぐらいで掌に納まるぐらいのサイズに折り畳めるものもあるんですけど、持っている人はなかなかいない。でもこれが一つあるだけで寒さがしのげるし、ビバークでの体力消耗も防げる。僕が話を聞いたあるお医者さんは『山で何よりも怖いのは低体温症。保温をしっかりできるかどうかが生死を分ける』と仰っていました。たとえ夏だろうと日帰りだろうと登山者は必ず雨具とツェルトは持っておくべきだと思います」
一方で貧弱な装備の極限状況にあって、もっとも活躍したのがラジオだったという。
「とくに深夜11時すぎから朝5時までNHKで放送している『ラジオ深夜便』には、孤独を癒されたし、とても勇気づけられたと仰っていましたね」
孤独に陥らなかったことが、生きる意欲を支えたのかもしれない。
Sさんはなぜ生還できたのか
それにしても、雨具もツェルトも、コンパスさえ持っていなかったSさんはなぜ生還できたのだろうか。
「私が一番感心したのは、遭難している8日間の間、Sさんがほぼ冷静さを保ち続けた点です。遭難直後は焦ったようですが、仕事が自由業だったこともあり、『何日かかっても無事下りられればいいや』とすぐに頭を切り替えています。そのうえで、岩場でどっちへ行くか、ガレ場(*岩屑が積み重なった場所)ではどの石の上に足を置くか、体を支えるためにつかむ木の枝が折れないか、などひとつひとつの動作に集中して細心の注意を払っていたそうです。Sさんは私に『行動中は判断を迫られる場面の連続で一歩一歩が生きるか死ぬか。あれほど集中して頭を使ったのは後にも先にもあの時だけです』と仰っていました」
事実、後に山岳雑誌の検証記事の取材で羽根田が訪れた現場は、「よくぞここを無事に下りてこられたな」と驚くような難所で、ひとつ間違えば命を落としかねない場所だったという。
「もちろんSさんの冷静な判断力は注目に値しますが、それでも無事生還できたのは、運がよかったからであり、奇跡といっても差支えないと思います」
遭難からの生還者の共通点を問われた羽根田が「運次第」と答えた理由が少し見えたような気がした。
(文中敬称略)
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