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高校で相撲部に入部 「相撲が弱い」は屈辱だった

 バレーも、1年生からずっと一生懸命やってて、2年になってやっとレギュラーだと思ったら、墨田区で一番脚が速いヤツが入部してきた。そいつが即、レギュラー。「よし、そろそろ俺も」と思ったら、今度は「モテ男」が入ってきて、これもすぐレギュラー。好きな女の子に「明日、告白しよう」と思っていたら、その前日に、ソイツに先を越された。レギュラーも女の子も全部持って行かれた(笑)。

 地方場所でお相撲さんたちがいない時は、友達20人くらいが泊まりに来て、マージャンやったりしてました。もちろん男しか来ませんよ。硬派ですもん(笑)。みんなでチャリンコで築地市場にメシ食いに行ったりして、楽しかったなあ。

現役時代の寺尾 ©︎文藝春秋

 高校は、同じく両国にある私立安田学園に。

 軟派になろうと、女子の多い商業高校に行きたかったんですけどね。内申書が学校で一番悪かったからダメ(笑)。

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 先輩に誘われて相撲部に入るんです。最初は体重65キロで、懸垂も腕立ても1回もできなかった。相撲部屋の息子なのに相撲が弱いって言われるのが屈辱で、人生で初めて頑張りました。夏には、腕立ては軽く100回はできるようになったし、懸垂も20回、片腕でできるくらいになったんです。当時は明大中野高校が強かったけど、二番手は安田学園というくらい、うちの学校も名門だったんです。

 俺も、めきめき強くなって1年生の後半、都の代表で全国大会に進んだことがありますよ。

 俺が相撲を始めたの、おふくろは嬉しかったんじゃないですかね。弁当がいきなり化け物みたいな大きさになりましたもん。タッパーウエア3つにそれぞれ飯、野菜、おかずが入ってて、「足りなかったら購買で買いなさい」って1000円くれる。マジソンスクエアガーデンのスポーツバッグが、弁当だけでいっぱい(笑)。

 テストがたまたま出来たとか、国語の偏差値が高かったとかより「股割りができるようになったよ」と見せた時、エライ喜んでましたからね。

 末っ子の相撲部入りを喜んでいた母は、高校2年時の5月場所千秋楽に、癌で他界。寺尾という四股名は、母の旧姓であることは、よく知られている。厳しい父だったゆえ、井筒3兄弟は、みな、お母さん子だったという。なかでも錣山親方は「マザコン」と称されるほど、母への想いは深い。

 母が危篤状態の時、病院のトイレで、一番上の兄ちゃんが、「お前、これからどうすんだ」って。「学校を辞めて入門する」と答えました。通夜の時に、親父が、おふくろの祭壇の前で同じこと訊いた。「葬式終わったら、学校行って辞めてきます」と言ったんです。昭和54年の7月に入門してからは、大部屋暮らし。楽しかったですよ。毎日のように、おふくろの墓参りには行ってました。夜中、自転車でお寺の前まで行ってボーっとしたりして……。