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《追悼・寺尾》“錣山親方”襲名直後に明かしていた「親父の教え」「貴乃花に負けた悔しさ」「妻との出会い」

source : 週刊文春 2004年5月13日号

genre : エンタメ, 芸能, スポーツ

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39歳まで現役を続けたのは貴乃花に負けた悔しさから

 プロの稽古はきつかった。これで飯食ってるんですからね。5年後に、新十両に昇進したんですが、やっぱり嬉しいものなんですよ。貴乃花関だって、あんなに何度も優勝してるのに、「一番嬉しかったのは新十両になった時だった」と言ってましたもんね。昇進を機に、親父に言われ、寺尾から「源氏山力三郎」という四股名に改めたんです。源氏山っていうのは、部屋に代々伝わる由緒ある名前。力三郎ってのは、親父の趣味で……。リキサブロウですよ、どうですか、これ(笑)。でも、この場所で負け越してしまったんで、「寺尾に戻させてください」と親父に頼んだ。これくらいですね、自分から親父に頼んだことというのは。

 昭和61年、8歳年上の現夫人と知り合う。夫人の伊津美さんは、当時、小学校1年生の長男を持つシングルマザーでもあった。

 落語家の痴楽師匠の結婚式で初めて会った。年上だから話しやすいこともあったんでしょうね。趣味はまったく違うんだけど、唯一笑うツボが一緒なんですよ。

断髪式の様子 ©︎文藝春秋

 デートは、いつも青山や渋谷に呼び出されてました。麻布十番のガラスケースみたいな喫茶店だったり。両国で生まれ育って、なかなかあっちの方には行きませんから、渋谷なんて、「こんなに人がいるのか!」って腰抜けましたよ(笑)。着物姿でちょんマゲでしょう。みんな異物でも見るように、ジロジロ見るんですから。

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 平成5年だったか、井筒部屋からほど近いところに、経営してたブティックを閉めた嫁さんが越してきたんです。俺が散歩していて見つけたんだけど、工事してるときから見てて「高級質貸マンション」の文字に惹かれた(笑)。2LDKで、俺は部屋に住んでいたから、飯を作ってもらったり、嫁さんの子どもの由布樹と一緒に遊んだりしていました。最初は、俺のことを「テラヨちゃん」って呼んでたんですよ。

 30歳くらいまでに結婚できればいいな、と思ってたんですけど、兄貴たちもまだ結婚してなかったし……。

 その後、両国の別のマンションに2年。約10年の交際を経て、平成7年、晴也くんの誕生とともに入籍。2人の息子を持つパパとなった。当時、既に高校2年生だった由布樹君を、初めて叱った。「それまでは、俺が父親面していいのかなと、どこか遠慮があったのかもしれない。でも、これで近づけたんです」。

 

 相撲のほうといえば、「土俵の鉄人」と呼ばれたほどの長い現役生活を送り、一昨年39歳で引退。

 これだけ長く現役生活を送れたのは、周囲の応援や家族のお陰もあるけど、目標があったからですね。自分なりにひとつひとつ、小さな目標を作ってた。

 それより何より、貴乃花関がいたからなんです。俺が28歳の時に、当時18歳だった貴乃花関に負けて、悔しくて、土俵に下がりを叩きつけて暴れたことがあった。貴乃花関個人がどうこうじゃなくて、「高校生みたいな年齢のヤツに負けた。今までの俺の十数年の相撲人生はなんだったんだ」って、とにかく悔しかったんですよ。