犬養は「話せばわかる」とは言わなかった
このようなテロリストの心情は、決行時の様子を詳細に覚えている者と興奮のために全く覚えていない者とに分かれるらしい。三上の証言は具体的であり、よく覚えていたようだともいうのである。
「まあ待て、話をすればわかるだろう。撃たんでもええ……」
と犬養は言い、部屋を替えようと言った。三上は頷き、犬養は日ごろ使っている15畳の和式の部屋へ向かった。この時には官邸を襲った海軍軍人の4、5人、それに陸軍士官学校の生徒数人もついてきた。つまり官邸襲撃班が犬養を取り囲むような形になったのだ。
犬養は、「靴ぐらいぬいだらどうか」と勧めた。三上は、「われわれが何のために来たか、知っているだろう。(中略)いいたいことがあれば一言半句は聞く」と詰め寄っている。
犬養はたばこを取り出して、ゆっくりと火をつけた。それは76歳の老人の計算でもあったであろう。まだ20代か30歳前後の軍人など、犬養には十分に説得する気構えがあったとも言えるように思う。昭和52(1977)年のことになるが、私は、中野雅夫から、あるいは五・一五事件に参加しなかったものの彼らと同志の関係にあった海軍軍人から、詳細に取材したことがある。そこでわかったことは、「話せばわかる」という言葉を犬養は口にしていないということであった。
しかし、それよりもっと重要な言葉を口にしていたようなのだ。
そのためにはもう少し襲撃時の様子を確認しなければいけない。
犬養の「最期の言葉」に込められた意味
犬養の落ち着いた態度を見て、襲撃班は戸惑ったらしい。というのは海軍の軍人たちには、犬養は政治家として明治期から政争をくぐり抜けてきた人物であり、いわば「タヌキ」と聞かされていたからだ。もし犬養に口を開かせたら、襲撃班のような若者はたちまちのうちに説得されてしまうだろうと彼らも考えていた。実際に三上の放った第一弾が不発だったために、事態はそのようなペースで進んでいったのだ。それなのになぜ犬養を撃ったのか。
犬養の先導で、15畳の日本間には襲撃班の海軍士官、陸軍士官学校の生徒などが入ったのだが、犬養がたばこに火をつけた時に、海軍中尉の山岸宏が、「問答無用。撃て、撃て」と叫んだ。山岸には犬養に説得されると、自分たちの行動は意味を成さなくなるとの焦りがあったのであろう。しかしその言葉があっても、日本間にいた者は、すぐにピストルを撃っていない。ためらいがあったのではなかったか。