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「歪曲されたデマ」が与えた影響

 このころ犬養の元に、張学良(ちょうがくりょう)から一通の書簡が届いている。中国の東北軍閥の張学良は、父・張作霖の暗殺が関東軍の仕業であることを知っているし、満州事変も関東軍による謀略まがいの事件であり、日本の軍事行動に嫌悪感を示し、強い不信感を持っていた。張学良は満州地方に青天白日旗を掲げ、蔣介石(しょうかいせき)の国民党への忠誠を明らかにしていた。関東軍の軍人や「支那通」と自称する日本の軍人には怒りを隠さない。張学良の書簡は切実な内容であった。

 この書簡の内容は、当時はほとんど知られていなかったのだが、犬養家の人たちなどへの取材で明らかになっていった。

 張学良は、犬養が辛亥革命に協力し、孫文(そんぶん)とも親しい関係にあったことなどをよく知っているし、満州事変以降の関東軍の軍事侵略に歯止めをかける政治家と見ていた節もあった。書簡の内容は、「関東軍が東北地方を侵略していく時に、中国の美術品や古典の書籍などを強奪同然に持っていっている。これは中国の芸術や文物に対する強盗行為であり、できるだけ速やかに返却してほしい。一部は勝手に買い取っていったようであり、その場合は買い戻すつもりなので、あなたは首相として私の望みを実現してほしい」との内容であった。

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 その手紙のなかに、手付のつもりか、ドル紙幣が入っていたとも言われている。

 犬養は、日本軍がそのような不法行為を働いていることに怒りを示した。軍にも注意を促そうとしていた。しかし犬養のもとに、張学良から現金が送られてきて、買収されかかっているという噂が意図的に撒かれた。犬養内閣のなかの親軍的な人物から意図的に、歪曲されたこの種のデマが流された節もあった。

 犬養に対する公然とした侮辱であった。

 五・一五事件をはじめとする国家改造運動の陸海軍将校や民間右翼の行動グループには、かなり意図的にこの噂が伝えられた。そういう将校や士官が犬養に対して怒ったのは、こういう噂のゆえであった。首相官邸で犬養を殺害するプロセスを精緻に検証すると、決行者のなかに見えてくる、いかなる理由があろうとも犬養を殺害するとの強固な意志は、こうした曲解のゆえではなかったかとも思えてくるのである。

 テロの怖さは、こうしたフェイクニュースによって起こることでもあるのではないか。