1ページ目から読む
4/5ページ目

 帰りはブロンフマンと一緒に相乗りをした。車で山道を下りながら、彼はおもむろに一言「あの曲はメヌエットだよね?」と声をかけてくれた。そう、私は完全にキーシンの演奏を引きずって、テンポも確立できぬまま弾いていたのだ。ブロンフマンの示唆に富んだ一言は私をハッとさせた。他人の演奏など気にすることはない。自分の演奏、目の前の作品にただ向き合うんだ─そう伝えたかったのだろうか。一見強面なブロンフマンの、懐の大きさと優しさ、そして豊かな経験を肌で感じた。

いよいよ本番が近づき……

 シャレーに帰って2時間ほどお昼寝をし、ラフマニノフの復習をしているとすぐに迎えがきた。会場に着いたのは開演の30分ほど前で、舞台裏には既に皆が勢揃いしている。もちろんプレトニョフを除いて。彼は本当に現れるのだろうか、彼の分まで私が2曲弾くことになったらどうしようなどと最悪の事態が頭をよぎったが、余計なことは気にせず、ただ自分の音楽に集中しようと心を整える。しかし、またも先輩ピアニストたちがピアノを独占中だ。私は手持ち無沙汰で舞台袖にあるケータリングのバーニャ・カウダをつまみ食いすることにした。ディップ・ソースがたまらなく美味しい。黙々と食べ続けていたら、あっという間に無くなってしまった。

 マーティンがステージに上がり、スピーチを始める。いよいよ開演だ。トップバッターのカントロフがステージへ案内されると、私は日本から持参してきた「お~いお茶」のティーバッグを開けてお湯を注いだ。“ここぞ”の時に登場する我が心の支えである。だが熱湯を良い塩梅に冷ましているうちにカントロフの演奏が終わったため、私は楽しみにしていた「お~いお茶」をろくに堪能することができないままステージに促された。暗闇の中楽譜を思い浮かべようと必死になるが、いかんせん目の前でフォルティシモ・ヴィルトゥオーゾ・キーシンが演奏中のため全く集中できず、ただ時が経つのを待つしかない。GPでの待ち時間は早かったのに、この3分のなんと長いことか。膝の上の拳を眺め、椅子の微調整を何度も行い、呼吸を整える。

ADVERTISEMENT

ラフマニノフ《前奏曲 作品23-3》を演奏 ©Evgeny Evtyukhov

 華麗にキーシンがコーダを弾き終え、眩しいスポットライトが私を照らす。一息の呼吸を持ち、さあ焦らずこの瞬間を楽しんで、常に最適で美しい音で弾こうと心がけながら、一音目を出した。良い音だ。弾き始めて間も無く、目線の先で人影がこちらへやってくるのが見えた。プレトニョフが、上手側のピアノの前に座って背中越しに私の演奏を聴いている。なんという光景だろうと一瞬思うも、慌ててすぐに曲へ没入した。技術的に少し余裕があるカンタービレの箇所で目線をちらりと向けたら、やはり彼は行儀よく座っている。こんな経験は二度とないだろう。すぐにプレトニョフのつむじのことは忘れて、最後の最後まで気を緩めることなく弾き切った。5分弱私を煌々と照らしていたライトは消え、プレトニョフに灯りが渡る。