1月28日に、通算20作目となったプリキュアシリーズの『ひろがるスカイ!プリキュア』が最終回を迎えた。
今作はモチーフは「空」、テーマが「ヒーロー」であり、主人公ソラ・ハレワタール(キュアスカイ)が現実世界の少女ではなくスカイランドという異世界から来た、ヒーローを目指す少女であり、彼女のイメージカラーがピンクではなく青であること、レギュラーキャラとしては初めての男子プリキュア(夕凪ツバサ/キュアウィング)、18歳の大人プリキュア(聖あげは/キュアバタフライ)といった新機軸が打ち出された。
今作に始まったことではないが、プリキュアシリーズにはいつしか「多様性」という言葉がついて回るようになった。
そもそもの第1作『ふたりはプリキュア』は肉弾戦で暴れる少女二人によってジェンダー・ステレオタイプを崩しにかかる作品であったし、最近では2018~19年の『HUGっと!プリキュア』は育児と仕事をモチーフにしてジェンダー分業を問い直したり、2019~20年の『スター☆トゥンクルプリキュア』は民族多様性を打ち出したりしている。
この「多様性」については、それを両手放しで大歓迎するのも、ポリコレだといって拒絶するのもどちらもバランスの取れた反応とは言えないだろう。
実際、プリキュアの「多様性」にはある種の限界がある。ただそれにしても、ステレオタイプを崩していこうという姿勢が、作品に制限を加えるではなくむしろ豊かにしているのは確かだ。
ヒーローとは「能力」のことなのか
とりわけ本作では、登場人物の心の動き、人物同士の関係の機微、そしてそれぞれの人物が直面する葛藤とそれがもたらす成長など、非常に丁寧に作られていて、キャラクターの中での内的な一貫性が保たれており、そのお陰で「多様性」にとってつけた感じはなく、説得的だった。
そのようなわけで本作を大いに楽しんだ筆者であるが、ここではそもそものモチーフである「ヒーロー」から出発して、「多様性」の問題のうち、とりわけ能力主義について考えてみたい。
筆者はまさに「ヒーロー」の現代的なあり方について考える本を上梓したところである(『正義はどこへ行くのか──映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』集英社新書)。
かつてのような「正義と悪」が成立しなくなり、価値の多様性が進み、下手をすると価値や正義のニヒリスティックな否定にまで突き進んでしまった現代において、「正義」はいかにして可能なのかを考察した。