――すっかり将棋一家なのですね。ご両親は内山先生の将棋を応援してくれたのでしょうか。

内山 父が教室はもちろん、合宿や大会などたくさん探してくれました。私が行きたくないと言えば、行かないで終わりだったと思います。でも、全部「行きたい」でした。大会には大阪の関西女流アマ名人戦、中学生王将戦、広島の村山聖杯将棋怪童戦など遠くても連れて行ってくれ、遠くの市民大会(市民以外でも出られる大会が多い)にもしょっちゅう。山形県天童市の市民大会にも参加しました。

 大会や指導対局で指した将棋はすべて対局後に自分でアプリに入力して保存していました。

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2014年3月に行われた将棋ファンミーティング。この日は深浦康市九段、飯塚祐紀八段、甲斐智美女流五段の指導対局を受けて、参加棋士、女流棋士と記念撮影。前列中央が小学3年の内山女流初段と一緒にイベントに参加した父(写真提供:内山あや女流初段)

――ローカル大会にも連れて行くのは熱心ですね。大きな大会も小さな大会も全部という感じですか。

内山 いや、私はテーブルマークこども大会(JTプロ公式戦と同日に全国11か所で開催される、最大規模の子ども大会で千葉の幕張メッセや東京ビッグサイトで行われる)には一度も出場していないのです。人が多すぎて引率も疲れると言われて。私も大会の規模にはこだわりはないので、それで良かった。大会で負けても泣くとか悔しがることもなくて、「たくさん指せて良かった」と言っていました。

――遠征にまで連れて行っているのだから優勝して欲しいと子どもに期待をかけてしまうタイプの親御さんもいますが、内山家はそんなことはなかったのですか?

内山 全然なかったですね。私は期待されてもされなくても、将棋を指す時の気持ちが変わらないし、優勝にこだわらないタイプというのが両親も早い時点で分かっていた気がします。

「自分は将棋の道に進むのだろうなと思っていました」

――小学生のうちに大会の有段者クラスで活躍されていました。初段になるのにどれくらいかかりましたか。

内山 連盟の子ども将棋スクールは初段になったら卒業で、卒業まで1年半。小5でした。初段になるのに苦労した記憶はなく、他の生徒より級が上がるスピードが速いのは分かっていました。卒業試験は講師の棋士との二枚落ちで、村中先生(秀史七段)だったか及川先生(拓馬七段)だったか、受け潰して勝ちました。私が受け将棋なのは、中学生のあたりで知花さんに教わった影響だと父は言うのですが、振り返ると、小学生の頃から受け寄りだった気がします。

 子ども将棋スクールを卒業する頃には、自分は将棋の道に進むのだろうなと思っていました。それまでの人生で惜しみなく多くの時間をかけてきたのが将棋だったので。

――どんな目標で大会に出ていましたか。

内山 たくさん指せることが大事なので、トーナメントの途中で負けると先を指せなくなるのは悲しい。3位決定戦があれば、3位でも対局数がマックス指せるので、3位以上ならいいと言っていました。