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 その『トップガン』から36年、私たちは一体どんな『トップガン』を、どんなマーヴェリックを目にすることになるのだろうと不安と期待を胸に劇場に足を運んだ。

 蓋を開けてみると、『トップガン マーヴェリック』は、近年盛んなリヴァイヴァルもの、往年の俳優たちが年老いた同じ役で出るという最近多いタイプの映画(そのいくつかは本書で扱うことになるだろう)とはどこまでも異質な映画だった。それはさまざまな“自意識”から解放された映画だった。

 1986年の『トップガン』は文化的な過去の遺物であり、マーヴェリック=トム・クルーズも年老いた、そういった事実をなんとか迂回して娯楽になりうる映画を作らなければならない――この映画はそのような(最近の多くの映画がとらわれている)自意識からどこまでも自由に、スカッと空の彼方まで、冒頭のダークスターのように飛んでいきそうな映画だった。

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 1980年代とは違った条件がいろいろとある。トムももう還暦だ。しかし、その制約を忘れて、新しい映画を作ってみせた。このいわば「忘却力」がこの映画の力の本質だろう。簡単に言えば、「バカみたいな映画」だった。もちろん、本当にバカになることは難しい。だがそれを成し遂げた。

©AFLO

 それと同時に、冒頭のシークエンス、アイスマン=ヴァル・キルマーの登場、そしてすでに退役した、先述のF-14の登場といった、往年のファンの心をがっちりつかむサービスも忘れない。

 そのような映画世界に観客を引きずりこむスイッチが、エド・ハリス演じる海軍少将の「君たちのような戦闘機乗りは絶滅の運命にあるんだ」という台詞に対する、マーヴェリックの「そうかもしれません。でもそれは今日じゃない(Maybe so, sir. But not today)」という返しだ。この「今日じゃない」にシビれてしまえば、あとはぼくらのマーヴェリックに身を委ねて、その活躍を心ゆくまで楽しめばいい。そんなスイッチなのだ。

一抹の不安と『オビ゠ワン・ケノービ』への失望

 ここまで書いたことは私の偽らざる感想だったのだけれども、映画鑑賞直後の興奮の波がしぼんでいくのに応じて、私の中では一抹の不安がムクムクと育っていった。

 その不安とは、私のような中年男性観客が、この作品に「エンパワー」されすぎるのではないか、という不安だ。

『トップガン マーヴェリック』では、還暦を迎えようかというトム=マーヴェリックが、なみいる若き戦闘機乗りたちを遥かに凌駕する操縦・戦闘技術を披露し、最終的には単なるベテランの教官としてではなく、現役の即戦力として彼らをリードしていく。これを観た中年男性たちは、大いにエンパワーされたことだろう。「オレもまだまだやれる」、と。