私は2022年に上梓した『新しい声を聞くぼくたち』で、そのように従属化してしまった男性の生き残り戦略の一つとして「助力者」となることを指摘した。オビ゠ワンもまた、助力者となることによってなんとか主人公としての命脈を保つ。つまり、レイアを救う助力者である。
ところが正直に言って、真の意味で助けられたのはオビ゠ワンであり、ユアン・マクレガーという役者の方だったかもしれない。今回幼いレイア役に抜擢されたヴィヴィアン・ライラ・ブレアのみごとな演技がなければ、『オビ゠ワン・ケノービ』に見るべきものはほとんど残されていないといっても過言ではなかったからだ(私は、このドラマのタイトルは『レイア・オーガナ』でもいいのではないかと、ある時点では思ったくらいだ)。
とはいえおそらく、『オビ゠ワン・ケノービ』のオビ゠ワンは、現在の従属化した男性性の重要な側面を捉えている。あえて言えば、作品として残念な出来になってしまわざるをえないことも含めて、それをよく捉えているのだ。
なぜ『トップガン マーヴェリック』は成立したか?
もしそれが正しいとすれば、『トップガン マーヴェリック』のような映画が大成功を収めた秘訣である「忘却力」によって力強く忘却されているのは、そのような従属化した男性性の現実だろう。その魔法のような忘却力が何に由来しているのかについてはさまざまな指摘ができるだろうが、なんといってもトム・クルーズという希代の俳優の力によるところが大きい。その力は、2023年公開の『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』でも発揮された。
ただし同時に、マーヴェリックは第一章で確認したアメリカン・ヒーローの原型にみごとに当てはまってもいる。つまり、共同体の外側に出る、もしくは共同体の外側からやってきて、その共同体に何らかの変化をもたらすというヒーローのあり方である。
「マーヴェリック=一匹狼」というコードネームはまさに彼が共同体の外側にいることを意味しているし、その意味で彼はヒーローの典型である。だが、最終的に彼が共同体にもたらす変化とは何か? そう考えると、彼にはヒーローとしての重要な要素が欠けているようにも見える。
「トップガン」シリーズは、共同体の物語というよりは、どこまでも希代の俳優であるトム・クルーズという「個人」の物語であるからだ。
ここで私が言う共同体とは何だろうか? これはもちろん難問であるし、一つだけの答えがあるわけではない。だが、『トップガン マーヴェリック』については、私はこの作品が語りかける共同体の、従属化した男性性に関する現実を、覆い隠してしまっていないかと危惧するのである。