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 だが、そのオビ゠ワンがとにかく弱い。その弱さを、宇宙全体でダークサイドの力が強まっていることや、オビ゠ワンが身分を隠すために戦闘訓練やフォースの訓練を10年間行っていなかったことに帰するのは確かに可能である。だが、戦闘力がないだけではなく、自信を喪失し、人並みに怖がったりいらだったりする。

 そんなオビ゠ワンの姿を毎週見せられるのは、正直に言って苦痛でしかなかった。かつての若々しいヒーローとしてのオビ゠ワンは姿を消し、そこにいるのはやつれた中年男性であった。とりわけ私のような観客にとって(ユアン・マクレガーは私の三歳年上で、ほぼ同世代と言っていい)、それは鏡をのぞきこむような苦行だった。

オビ゠ワンの従属的男性性

 だが、観賞後に私はふと思った。最終的に肯定されるべきなのは、『トップガン マーヴェリック』よりも、『オビ゠ワン・ケノービ』なのではないか?

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 もちろん、フィクションと現実との区別がうまくできているならどちらを肯定してもいいと言えばそうなのだが、それにしても、マーヴェリックは、完璧すぎないか。オビ゠ワンのように、年老いて力を失っている、けれどもやむにやまれず使命にかり出されそれをなんとか乗り越える……こちらの方が、現代においては説得力のあるヒーローとは言えないか?

 ここまで論じてきた通り、若く力強い、健常者の異性愛白人男性というどこまでもマジョリティ的なヒーローというのは(マーヴェリックの場合は若くはないのだが、それを乗り越えることそのものが肝である)、あまりにもベタすぎて、今や保留なしでは肯定できないのではないか。

 そして何よりも、とりわけ私のような中年男性観客は、自分たちの幸せのためにも、マーヴェリックに興奮して下手な同一化をするのではなく、オビ゠ワンの中の自分の鏡像と向き合う術を学ぶことの方が重要なのではないか?

 現代のヒーローものでは「男らしさ全開」では説得力を持たない。個々の作品を挙げれば、これに反論は可能かもしれないが、それにしてもヒーローものの前提を徹底的にひっくり返すことを本体とする最近の作品(ここで念頭にあるのは、先述の「ザ・ボーイズ」シリーズであり、「アンブレラ・アカデミー」シリーズである)の標的となる主たる前提が、男性性、男らしさであることは全体的傾向として言えるだろう。

画像はイメージ ©AFLO

 そうすると、広い意味でのヒーロー物語として、現在支配的なのは『オビ゠ワン・ケノービ』の方であり、『トップガン マーヴェリック』は偶然の徒花のようなものと考えるべきではないのか?

 実際、『オビ゠ワン・ケノービ』のオビ゠ワンには、現代的な男性性表象のある種の典型が多く盛りこまれている。旧来的なヒーローの超越的な力が女性たちに付与されることが増える中、オビ゠ワンは力を失い、何よりもそれに付随して絶対的な「正義」のポジションも失っている。

 このことは、フェミニズムが進展し、性の平等が進んだ社会では、当然のことであるし歓迎すべきことでもあるだろう。しかし、それだけではそもそも男性を主人公とする物語が成立しない。