江戸城本丸にあった大奥はどんな場所だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「1万坪以上の広さを持った江戸城本丸御殿の約半分が大奥だった。数百名ほどの女性がおり、職務や身分、階層の違いも厳格な、大がかりな官僚組織だった」という――。

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実は大奥についてはわからないことが多い

NHKのドラマ10「大奥」に続き、現在、フジテレビ系の木曜劇場「大奥」が放送中で、江戸城内の「秘密の女の園」として知られる大奥への関心が、かつてなく高まっている。ところが、大奥についてはわからないことが非常に多い。

というのも、女性が大奥で働く「奥女中」に採用されるに当たっては、血判を押した誓紙を差し出す必要があり、そこには「奥向きの事は親兄弟たりとも一切他言致すまじき事」などと書かれ、女中法度でも同様に定められていたからだ。

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このため信頼に足る史料が少なく、これまで大奥について語られてきた情報は、明治以降にかつての大奥関係者が語った内容が中心だった。

しかし、近年、建築の側からの研究が進むとともに、将軍家に「御台所」(正室)を嫁がせた公家や大名家、あるいは将軍の娘が嫁いだ大名家に残っていた史料などからも、大奥の実態は少しずつ解明されつつある。

江戸城の中枢である本丸は約3万5000坪と、東京ドームの2.5倍ほどの広さがあった。本丸御殿の建坪は時期によっても異なるが、1万2000坪から1万6000坪程度で、130棟もの建物が連なって構成され、本丸を埋め尽くすかのようだった。

本丸御殿は南から北に向かって、中央政庁にあたる「表」、将軍が起居して日常の政務に当たる「中奥」、将軍の御台所や子女、奥女中らが暮らす「大奥」に分かれ、じつに本丸御殿の建坪の半分は大奥が占めていた。

400人超の女性が大奥にひしめいていた

中奥と大奥のあいだは、上下二つの御鈴廊下だけで結ばれていた(ただし下御鈴廊下は江戸中期以前の記録にはない)。この廊下の入口は御錠(ごじょう)口といわれて杉戸が立てられ、中奥と大奥それぞれの側に鈴があって、将軍が入退出する際に鳴らされた。