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「側室=将軍のお気に入り」ではなかった…江戸城の大奥にいた数百人の女性から「夜のお相手」が選ばれるまで

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こうした奥女中たちは、家から通うのではなく大奥に住んだ。彼女たちが起居していたのが「長局(ながつぼね)」だった。

そこには4棟の長い建物が南から北へと順に並んで建ち、いちばん南の「一の側の棟」が最大で、二の側、三の側、四の側と少しずつ小さくなった。その東に横側とよばれる小さな建物が3棟並んでいた。いずれも2階建てで、もちろん、役職や身分によって住む棟が決まっており、一の側の部屋には、御年寄や中年寄ら上層の奥女中が一人ずつ住んだ。

将軍のお世話係が側妾になるまで

これらの役のなかで特筆すべきは御中臈だろう。御台所付の中臈なら問題がないが、将軍付の中臈の場合、将軍の側妾になる可能性があったからである。ただし、将軍が気に入った中臈を側妾にしたのではない。そこには現代の感覚からは想像がつかないシステムが機能していた。

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将軍付の中臈は、御年寄の合議によって決められ、世話親がつけられた。こうして将軍付となった中臈は、以後は長局内の世話親の部屋に起居して、すべてにわたって世話親の指示を受けた。

将軍がみずから好みの中臈を選ぶこともあったが例外で、基本的にはこうして推薦によって将軍付になった。このため、大奥の女中のあいだでは有力な御年寄や御客会釈との関係を築くためにも、激しい勢力争いが起きやすかったのである。

将軍の手がつかない中臈は「お清」と呼ばれ、一方、お手つきは「汚れた方」と呼ばれた。また、将軍の手がついた中臈でも、その子を身ごもるまでは独立した部屋をもらえず、大奥における地位も中臈を超えられなかった。

このようにして選ばれた側妾の数は、将軍によって異なるが、おおむね7~8人ほどだったようだ。ただし、17人の腹から55人の子供を産ませた11代将軍家斉には、40人もの側妾がいたという。

すぐ脇で監視されながらの夜の営み

ところで、歴代将軍のなかでも御台所から生まれた子は、3代家光と15代慶喜の二人にすぎない。しかも慶喜は、水戸徳川家の斉昭と正室のあいだの子で事情が異なる。将軍家を存続させるために大奥と、側妾の制度が機能していたことは疑いない。